西欧の中世 2
「カテドラルの世界」(『中世の星の下で』より)
著者は一貫して「人間と人間の関係のあり方の変化をさぐる」ことから
「社会史」を構想している。話は西欧の中世だが、私たちの生きる日本社会に
ついても考えさせられる。
この章で著者は「抽象的な議論をさけるために、具体的なモノに絞って考察
する」、そのモノとして「ヨーロッパ中世・近代を通じて最大の建造物といって
よいカテドラル」、ロマネスクやゴシック建築の天を摩する大聖堂を挙げ、
「その背後にあってそれを必要とし、支えていた人々の関係の表現として」
考察するとしている。
「一体どのような必要があって、またどのような社会的並びに財政的基盤の
上で、数十年あるいは数世紀にも及ぶ大工事が可能となったのかを問わずには
いられなくなる。」
大聖堂の建築には莫大な費用が掛かっているのです。石を遠方の土地から
運び、各地の石工たちを呼び寄せ、数十年の間ひとつところで働かせるために
は何よりも多額の資金が必要でした。
* 中世中期から後期
これらの大聖堂を生んだ中世中期と後期、11世紀から15世紀末までは、
それ以前とそれ以後の社会とどのような点で異なっていたのかを解明する必要
があるのだ。
「これまで歴史学においては・・中世社会をキリスト教社会としてとらえ、
大聖堂の建立も神をたたえるために行なわれたと理解されている。・・
(その説明は誤りではない)
しかし中世に生きる国王や貴族、聖職者、農民らの心性の底を流れるもう
一つの潮流にまで探索の針が届いていない・・
何故ならキリスト教の伝道は長い目で見れば古ゲルマン諸部族における人と
モノとの関係と目に見えない絆で結ばれた人と人との関係を決定的に変えて
いったが、その結果がはっきり定着するのは階層によっても差があるが16世紀
以降なのである。」
* ゲルマン的人間関係ー贈与慣行の転換
「中世中期の段階ではキリスト教の外被の下で古いゲルマン的な人間関係が
国王、騎士そして聖職者の中でさえも脈々と生きつづけていたからである。」
古ゲルマン的な世界ばかりでなくどこの世界でも人と人との関係は贈物の
交換によって表現されていた。贈与慣行の世界であった。わが国では現在でも
贈答の慣習がなお強く残っている。
「贈与は単に動産や不動産などの経済的に意味のある物の交換であっただけ
でなく、饗宴、軍事奉仕、婦女子、祭礼なども交換され、贈与慣行は『宗教、
法、道徳、政治、経済の全制度を包含する全体的社会現象』(M、モース)
だったのである。」
そして「地上の財を寄進するものには神の恩寵を得る道が開かれ、神の宥し
がえられる」という考え方は、古来の贈与の慣習をキリスト教がとりこんだ
結果うまれたものなのであり・・キリスト教の中に古い贈与の慣行が入り
こんだこと・・を意味している。
教会は「死者への贈与としてあるいは自己の幸運を保証するものとして財
宝を埋める慣習をやめさせ、教会に寄進させた。それは神への贈与であり、
返礼は・・天国で与えられると説いた」
11世紀までの「王が建設する大聖堂はかつてゲルマンの王が家臣に惜し
げもなく分配した財宝の変形であり、・・王の権威を高めるうえで比類のない
モニュメントとなった」
* 中世における高位者の条件は人に物を与えることでした。国王
であれ領主であれ、高位身分の者は、臣下に惜しげもなく戦利品や多く
の物を与えることによって、上位者であることを誇示し、人をつなぎ
とめたのです。
この関係はその後貨幣経済の進展によって大きく変貌してゆくのです
がモノを与えることが出来る立場にある人が、社会の上位に位置づけら
れるという不文律は全く変らなかったのです。
キリスト教の浸透によって、見返りのモノが期待できない状況のなか
での与えるという行為が、有徳の最たるものとして位置づけられてゆく
のです。
(『中世の窓から』)
「これはいわば世界中に普遍的に見られる贈与慣行を転換した一つの特殊な
ケースであった。このような転換はあるていどどの宗教にもみられるもので
あり、・・多くの宗教において大寺院が建立されている。
しかしながらヨーロッパにおいては王だけでなく、騎士たちや聖職者、
そして12世紀以降は市民も大聖堂を建立するようになる。
そして日常生活の次元では今日のわが国でお中元、お歳暮、お土産、何か
の援助に対するお礼、等々の形で残存している贈答の慣行は中世以降クリス
マスと誕生日、復活祭以外には日常的には行われなくなっていくのである。」
「このような変化をもたらした原因は一体何か。」が問われなければならない。
(続)