晴女と雨男 | 鬼川の日誌

 晴女と雨男

 晴女と雨男
 
  私達のように山に登ることを趣味としているものにとって、計画の日の
 天気が晴れであるか雨であるかは実に問題である。それがそう簡単に
 やり直せないような重要な計画であればあるだけ余計そうである。

  ある程度例年の大まかな天気の傾向とか天気予報は計画の段階で織り
 込むにせよ、しかしこればかりは私達の力では如何ともし難く、偶然に
 翻弄されるしかない。
 
  こういうとき私達が必ず口にするのが、「普段の行いが悪いからだ」という
 言葉である。別の言い方をすれば「あの雨男が参加したからだ」と誰かを
 イケニエにするというわけである。

  また逆に素晴らしい天気に恵まれうれしくなれば、「晴女がいっぱい」と
 思うのである。もちろん半分冗談ではあるが。

  私達は鎌倉時代の武士ではなく、本当にまともに自分の普段の行いと
 天気が関係している、などと思っていることはありえない。
 天気予報は完全ではないにせよ、それは科学的に予測できる事だし、
 次の日が雨であるのは、低気圧が接近しているからだと分かっている。

  しかし自分のやりたいことが上手くいくかどうか、そのための自分なりの
 技術的な努力(たとえばスキー技術を高めるとか、岩登りのためにロープ
 ワークを習得するとか)を超えた範囲については、やはり根深く自分の身を
 律しなければまずい事に直面するという思いを持っているのではなかろうか?
 そしてそれは鎌倉時代の武士たちという恐ろしく昔からの考え方を引き
 ずったものらしいというと、おどろくだろうか?

  ロケットの打ち上げ技術者が最後にするのが神頼みだし、ほとんどの人が
 家を建てるときには地鎮祭を執り行う。

  結婚式には大安吉日を選び、友引には葬儀を止め、身内に葬儀があれば
 年賀状は出さない。

  これらは私達日本人はまだまだ神様を沢山抱えているということを示して
 いるわけだし、「神判」を退けてはいないことを指し示しているわけだが、
 そんなことに思いを馳せたことはあるだろうか?