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日曜日のキジバト

生成AI/創発/しごでき(にあこがれる)/うまくいく単純なアルゴリズム/読書/職場のストレス

休日の終わり、「今日は何もしていないな」とふと思うことがある。
特別な用事もなく、予定もなく、なんとなく部屋にいて、
テレビをつけたり、スマホを見たり、うたた寝したりしていた一日。

 

何かを生産したわけでも、達成したわけでもない。
「無駄にしたかも」と罪悪感すらよぎる。
でも、そんな日があったからこそ、
翌週を無事に始められることもある。

 

外に出なかったぶん、身体は休まっていたかもしれない。
誰にも気を遣わず、思考を止めて、
自分の輪郭をなぞるように過ごしていたかもしれない。

 

「なにもしない時間」は、空っぽではない。
見えないところで、すこしずつ疲れがほぐれたり、
感情が静まったりしている。

 

世の中には「動き」や「成果」を求める声が多い。
けれど、何もしていないようでいて、ちゃんと過ごせている日もある。
それは、回復の時間であり、静かな営みでもある。

 

「今日は、ちゃんと過ごせた」と言って、
そっと一日を閉じる。
そんな穏やかさも、暮らしには必要だと思う。

毎日の通勤路や、週末に歩く近所の散歩道。
「また、同じ道だな」と思いながら歩いていても、ふとした瞬間に、いつもと違うものが目に入ることがある。

 

アスファルトの隙間から生えてきた草の種類が変わっていたり、
電柱の落書きが新しくなっていたり、
公園のベンチの塗装が塗り直されていたり。

 

そういう変化は、意識しなければ気づかないほど小さいけれど、
たしかにこの世界は止まっておらず、少しずつ、しかし確実に動いている。

 

変わらない日常に見えても、
季節は進み、空の色も変わっている。
見慣れた道に咲く花のタイミングが、去年と少し違っているように感じることもある。

 

そんなふうに「同じはずだったもののなかに、違いを見つけること」は、
案外、自分の変化にも気づくきっかけになる。

 

疲れていても、何も進んでいない気がしても、
同じ風景が少し違って見えるとき、
それは「自分の見方」がわずかに変わった証拠かもしれない。

 

同じ道を歩いていても、
歩いている「自分」は、昨日とまったく同じではない。
だから、変わらない日常のなかにも、気づけば何かが育っている。

 

そんなことを思いながら、今日もまた、
「いつもの道」を歩く。

「今日は、いつも通りの一日だった」。
そう思える日は、実はとても貴重だ。

 

朝、起きて、顔を洗い、少し気持ちが重たくても職場へ向かい、帰ってきて、なんとなく夕飯を済ませて、静かに夜が更けていく。大きな達成も、大きな失敗もない。ただ、淡々と一日が終わる。

 

それだけのことが、どれほどむずかしいか。
やってみるとすぐにわかる。

 

「いつも通り」でいるには、心身のバランスが保たれていなければならない。何かに怒りすぎず、何かに怯えすぎず、自分の感情と少し距離を取りながら、「今日もやるべきことをやる」ために身を動かす。
誰にも見えない小さな努力の繰り返しだ。

 

ニュースやSNSでは、毎日「変化」が求められる。
「新しいことを始めよう」「もっとがんばろう」。
そのメッセージの洪水のなかにいると、「同じことを続ける」という行為が、どこか時代遅れのようにも感じてしまう。

 

でも、心の底ではわかっている。
「いつも通り」を丁寧に積み重ねる人にこそ、確かな力が宿るということを。

 

安定した生活の裏には、不安定と折り合いをつける知恵がある。
目立たない継続の中に、自分なりのスタイルが形づくられていく。
調子が悪い日も、眠れない夜も、ときにはやる気の出ない朝も、そのすべてを受け入れながら、「それでもやっていく」力が育つ。

 

だから、私は「いつも通りの一日」を、大切にしている。
たとえ誰にも気づかれなくても。
変化を焦る気持ちが襲ってきても。

 

“いつも通り”が、一番むずかしい。
だからこそ、いちばん価値がある。