“成果が出ない思考”に、意味があるか? | 日曜日のキジバト

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思考する。それは、現代においてもっとも軽く扱われやすい行為の一つかもしれない。

なぜなら、目に見える成果を生まない思考は、「何の役にも立っていない」と見なされがちだからだ。即時にアウトプットに結びつかず、結論も出ない思索の時間は、「もたもたしている」と捉えられ、加速し続ける社会から取り残されていくような感覚さえ覚える。

しかし本当にそうだろうか。

■ 思考の“時間差”

たとえば、日々の業務の中でふと立ち止まり、「これは本当に意味のある作業だろうか」と疑問を持ったことがある人は多いはずだ。でもその問いは、すぐに答えが出るものではないし、目の前のタスクを止めてまで考え続ける余裕もない。だから一度は忘れて、また目の前の仕事に戻る。

けれど数週間後、あるいは数カ月後に、以前のその“問い”がふとよみがえり、判断の指針になることがある。

そういう思考には、「成果が出ない時間」が含まれている。

しかしそれこそが、「選択に対する納得感」や「迷いながらも自分の軸で決めた」という感覚をもたらしてくれる。

■ 考えがまとまらない時間が、意味を持つとき

人と話していて、あとから「あのときこう言えばよかった」と思うことがある。あの悔しさも、成果が出ない思考のひとつだ。でもその経験があるからこそ、次に似た場面が来たときには、もう少しうまく言葉が出てくる。

「まとまらなかった思考」もまた、積み重なっている。

結果が出ることばかりが意味を持つのではなく、「結果にたどり着けなかった時間」も、別のかたちで次の思考の厚みを支えている。

■ 思考と社会のテンポのズレ

社会は「結論」を求める。だからこそ、結論が出ないままに続く“思考の時間”は評価されにくい。でも、思考とはそもそも、答えが見つかるかどうかよりも、「自分が何を大事にしているのか」「今なぜ迷っているのか」を自覚するための過程ではないだろうか。

アウトプットの速さだけで価値が測られる時代において、「成果が出ない時間」は、じつは思考の自由を守る最後の砦かもしれない。

■ わからないまま、考え続けること

年齢を重ねると、「答えを知っているフリ」をすることが増える。でも、よくわからないものは、やっぱりわからない。その感覚を正直に持ち続けることは、けっして弱さではない。

“成果が出ない思考”にも意味がある──それは、すぐにわかる価値ではないけれど、後になってじわじわと効いてくる。たとえば、10年前には気づけなかった自分の癖に、ある日ふと気づけるようになる、そんな「自分との付き合い方」の変化もまた、思考の蓄積の成果だ。

焦らなくていい。言葉にならないまま残る思考も、きっとどこかで自分の支えになる。