“退屈な作業”が、実は思考の深さをつくっている | 日曜日のキジバト

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生成AI/創発/しごでき(にあこがれる)/うまくいく単純なアルゴリズム/読書/職場のストレス

ファイルの名前をひとつひとつ変える。
似たようなメールに返信し続ける。
テスト項目を黙々とチェックする──。

日々の仕事には、「退屈だけど必要な作業」が多い。
効率化できるならしたい。でも、完全にはなくならない。
そしてときどき、ふとこう思う。

「この時間、無駄なんじゃないか」
「こんなことで、何かが進んでいるんだろうか」

けれど最近、その「退屈な作業」こそが、自分の思考を深くしているのではないかと思うことがある。

頭を“遊ばせる”時間の効用

単純作業をしていると、頭の中は自然と別のことを考えはじめる。
昨日の会話を思い出したり、読んだ記事の意味を咀嚼したり。
ふとした疑問が浮かび、それが思考の小さな種になることもある。

それはまるで、脳の「余白」にアイデアが宿ってくる感覚だ。

この“頭を遊ばせる時間”は、明確に「考えるぞ」と構えるよりも、自由で深い。
散歩や入浴、料理や掃除のときにも似たような状態が生まれるが、職場のルーティン作業でも同じことが起きている

情報に囲まれて「考えられなくなる」時代に

今の私たちは、常に何かを読まされ、答えを提示されている。
ニュース、SNS、AIの提案、検索結果──。
何かを「考える」よりも、「評価された思考に触れる」時間の方が圧倒的に多い。

すると、自分の言葉で考える筋力が落ちていく。
瞬発力はあるけれど、深く掘る力が育たない。

そんなとき、“退屈な作業”のあいだに生まれる自家発電のような思考は、とても希少な訓練になる。

「考える場所」としての単純作業

手が動き、口を閉じ、情報の入力が止まるとき。
思考のプロセスが、内側から静かに立ち上がる。

  • 「最近よく耳にするあの言葉、実はよくわかっていないな」

  • 「なんであの人の話は納得できなかったんだろう」

  • 「あのとき自分が選ばなかった選択、今ならどうするかな」

そうした問いは、読書や会議の中では出てこない。
“何もしない状態”に近い作業中にこそ浮かび上がる

それをキャッチできるかどうかが、思考の深さを分ける。

雑務や作業を、思考の場に変える

雑務や繰り返し作業を、「意味のないもの」と切り捨ててしまうのは簡単だ。
でもそこに、あえて意味を持たせてみると、見えるものが変わってくる。

  • 作業しながら思考メモをとる

  • 「これをやってるときに浮かびやすいテーマ」を意識する

  • 作業時間=思考時間とみなして、他の入力を意図的に減らす

そうすると、“考えるために手を動かしている”という感覚が生まれる。

おわりに

退屈な作業は、何の価値も生まないと思われがちだ。
でも実際には、その時間こそが深くものを考える余白を生んでいる。

効率化や自動化の波の中で、こうした“無駄に見える時間”はどんどん削られていく。
けれど、そこにあった思考の豊かさまで削られてしまっては、本末転倒だ。

目立たないけれど、思考の基礎体力は、そうした時間の中で育つ。
だから今日も、ファイル名をひとつひとつ変えながら、自分の中に浮かんでくる考えを、静かに拾い集めていきたい。