SNSでの“成功体験”が、思考の自由を奪っていくとき | 日曜日のキジバト

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SNSをやっていて、思いがけず「伸びた投稿」があると、嬉しくなる。
いいね、リポスト、フォロー──反応が数字として可視化されることは、確かに気持ちいい。
その一方で、気づかないうちに自分の思考や表現の“幅”が狭まっていく感覚を覚えることがある。

それは、過去の成功体験に縛られていくプロセスでもある。

成功体験がもたらす“型”の形成

投稿がバズると、「なぜ伸びたのか?」を考える。
その答えが見えた気がすると、次からはその「型」をなぞるようになる。

  • このテーマなら受けた

  • この時間帯なら見てもらえた

  • このトーンなら共感された

そうして、自分でも気づかないうちに**“過去の成功パターン”に沿ってしか考えられなくなる**。

自由に発信しているようで、実はとても不自由な状態だ。

思考が「打率主義」に染まっていく

SNSは、発信に対する“数字の結果”が即座に見える。
それはとても便利な指標であり、モチベーションにもなる。
しかし同時に、「数字の高い投稿が“正解”」という感覚を刷り込んでくる。

すると、思考は徐々に「打率重視」になる。
意味のある問いより、反応のある問いを選ぶようになっていく。

そしてある時、こう思う。

「この話題、書いても伸びないからやめておこう」
「これは自分が考えたいことだけど、誰も興味ないだろうな」

そうして、自分の中にある“書きたいこと”“考えたいこと”を切り捨てていく。

成功体験の“副作用”に気づくとき

SNSの反応は、たしかにフィードバックであり、ありがたい指標でもある。
でも、それが「表現の主軸」になってしまうと、自分自身の判断基準が曖昧になっていく。

  • 「これは自分にとって意味がある」

  • 「これはたとえ読まれなくても残したい」

  • 「これは誰のためでもなく、自分のために考えたい」

そういう感覚が薄れると、アウトプットは“受け狙い”に近づき、思考は“再生産”に寄っていく。
その先にあるのは、「何を書いても、自分の言葉じゃない気がする」という違和感かもしれない。

思考の自由を取り戻すために

では、どうすれば「思考の自由」を守ることができるのか。
いくつかの試みがある。

● 成果を前提にしない記録の場所を持つ

反応や評価を受けない場所──たとえば、非公開メモや手書きノートなどに、自分の思考をまず吐き出す。
その中から、「やっぱりこれは書いてみたい」と思えたものだけを外に出していく。

● “誰にも届かないかもしれない投稿”をあえて出してみる

意図的に「伸びなさそうな話題」を書く。
それは、思考のバランスを回復させるリハビリになる。

● 成功体験を“棚に戻す”習慣を持つ

「これ、以前はウケたな」という感覚がよぎったときは、あえてそれを手放す。
「一度うまくいったことは、二度目の足かせになる」
そんな視点で見るだけで、選べる言葉が増える。

おわりに

SNSの成功体験は、たしかに貴重な経験だ。
でもそれは、“持ち歩くべき地図”というより、“一度使った旅程表”に近い。
そこに頼りすぎると、新しい道を歩く勇気を失ってしまう。

思考の自由は、「何を書くか」ではなく「何を書かないか」を自分で選べることから始まる。

過去にとらわれず、いまの自分の言葉に耳を傾ける。
それが、誰の反応にも縛られない、静かで強い発信をつくっていくはずだ。