都市の周縁部──いわゆる郊外と呼ばれる地域には、独特の時間の流れがある。通勤時間帯の混雑、週末のショッピングモールの賑わい、保育園や学校から子どもが帰ってくる午後のひととき。その中に、ふとした“空白”のような時間が存在する。
午後三時。
この時刻、都市中心部であれば、ビジネスの中盤やカフェの混雑、あるいは打ち合わせが連続する時間帯として機能している。だが、郊外では事情が異なる。住宅街の歩道には人の姿が少なく、商店街にもにぎわいはない。音は小さく、鳥も鳴かず、風景はほとんど停止しているかのように見える。
この沈黙は、決して無意味ではない。午後三時は、労働の場からも、学校からも、買い物のピークからも外れた時間帯である。公園には誰もおらず、保育園の送り迎えにはまだ早く、商業施設のフードコートもまだ空席が目立つ。何者にも明確に割り当てられていない時間──それが、郊外の午後三時である。
一方で、この時間帯にはある種の潜在的な共有が存在している。高齢者が玄関先で植物の手入れをし、ペットの散歩をする人がまばらに歩き、宅配業者が音を立てずに荷物を置いていく。決して「誰もいない」わけではないが、「誰のものでもない」ような質感を持っている。
この「誰のものでもなさ」は、都市の境界に住む人間が持つ共通の感覚でもある。日々のリズムに従いながらも、そのリズムから一時的に解放される時間。主体的に「使う」わけではないが、結果的に“自分のものになっている”時間帯である。
郊外の午後三時は、行動の時間ではなく、観察の時間である。目立つものが何も起きないことで、逆に都市の構造や人々の生活パターンが透けて見えてくる。人が動かない時間こそ、社会の構成要素が最もよく露出する。
結局のところ、午後三時という時間は、明確な所有者を持たない。だが、その“空白”が生み出す余白こそが、郊外の暮らしに深く根づいている。「誰のものか」と問うたとき、そこには一人一人が“密かに使っている時間”という答えが返ってくるのかもしれない。