こんにちは(^-^)


Atelier O-Wave の nami です。








先日、私の父はステージ4の肺癌扁平上皮癌で永眠しました。







父は福島県の出身で、卒業後神奈川県の商社の捺染業に就職したそうです。




昔、横浜は捺染業が盛んで、スカーフといったら横浜の物が有名でした。


少し調べてみると130年の歴史がありました。



私の両親は、父は捺染の糊を作る色場、母はスカーフやハンカチのミミを巻いて仕上げるミシン場で働いていた様で、ここの会社で出会って結婚した様です。

幼い頃の記憶なので定かではありませんあせる




その後港南区の捺染工場の工場長となり、住み込みで働いていました。




幼い頃から見慣れた手捺染の懐かしい作業動画を見つけたので、ご覧ください。



今でも板場にシルクを貼って型を使って1枚1枚手作業で仕上げている捺染工場があった事を知り、とても懐かしく嬉しくなりました。




(画像をお借りしました)



子供の頃、布を貼るために接着剤の付いた板場の上をペタペタと走るのが好きでした。


とても急な角度がついていても接着するので滑り落ちる事無く、走りきれるからです。



見つかると両親に怒られていましたが、一反の布の長さがある板の上は走りがいがありました。




父が染色をしていた頃はパソコンなど無く、いただいたスカーフのデザイン画を見ながら、デザイナーさんが作った色を一つ一つ丁寧に再現する為に、何色も色を調合していました。


その様子は天秤を使い、理科の実験の様に薄い文鎮を使って、細かく色のグラムを測り、何色も混ぜて作って染色リストやスワッチを作っていました。




今では化学物質の危険性など、色々と見つかっているので、安全だと思いますが、昭和の頃はまだまだその辺りは無頓着だったので、色の調合をしている時に仕事場に遊びに行くと、危ないから入ってはいけないと、よく叱られました。



危ないのに父は鼻と口をタオルで覆うだけで作業をしていました。



父の家系に癌で亡くなった人はいないので、今思えば、仕事柄吸い込んでしまった化学物質の影響が大きかったのではないかと考えてしまいます。

それとかなりのヘビースモーカーでした汗




染めた布を乾かすために、常にボイラーが付いていて、豊富にお湯が沸いていたので、母家から4〜5メートル離れた四畳半ほどあるお風呂場は、いつでも暖かくお風呂に入る事が出来ました。



自然の中の一軒家だったので、お風呂場には牛カエルがいたり、蛇がいたりと、虫には強いけど爬虫類が苦手だった母が、よく悲鳴を上げていたのを思い出します。



私たちの家の玄関は工場の出入り口だったので、小学校から帰ってくると従業員の皆さんが家族の様に「お帰り〜」って迎えてくれて、時には遊び相手になってくれたりしました。





どこまでが工場の敷地で、どこからが原っぱなのか分からない場所にポツンと工場はありました。

ポツンと…とはいえ、2本の川が合流したYの字の様な場所にあったので、陸続きの原っぱがあっても、メインで使っていたのは鎌倉街道の方へ架けられた橋でした。



街道よりも低い土地だったので、大きな台風が来ると川の水が氾濫し、時々床下浸水する事がありました。



お風呂場の隣には犬小屋があって、秋田犬のミックス犬やシーズーのミックス犬を飼っていた覚えがあります。


川の水が氾濫すると長い鎖に繋がれた犬が一生懸命に泳いでいて、父が腰の高さ近くまである泥水の中を歩いて、犬を助けに行く姿を覚えています。





私が小学生の高学年だったか、中学生になってからだったか、スカーフやハンカチの需要が低くなり、住み込みで働いていた工場が倒産しました。



染色の糊を調合出来る父には、すぐ他社からお声がかかったので、家族は路頭に迷うことはありませんでした。



初めてのお引越しで、木造二軒長屋に住みました。

借家だったので犬は飼えず、工場の近所の方に預かっていただきました。


全体的に黒く4本の足先と尻尾の先だけ白かった「クロちゃん」は、工場に勤務していたおじさんがお散歩代わりに原っぱに離してくれていて、夕方のエサの時間に戻ってきていたのに、ある日帰ってきませんでした。



事故に遭ってしまったのかしら?

お腹は空いてないかしら?

どこかで怖がってないかしら?


あれこれ心配していましたが、1ヶ月程過ぎた頃、クロちゃんにそっくりな犬が、全く知らないおじさんにリードに繋がれてお散歩をしてる姿を見ました。


母は、良い人に拾われたんだね。と言っていましたが、子供の私は「バカ犬むかっ」って怒っていました。




父は捺染業、母はダイエーの紳士服売り場でパートが始まります。



私はこの場所で成人式を迎えるまで過ごします。

狭いながらも、少しだけお庭があったので、洗濯物を干す竿があり、バイクを保管する為の小屋も建てられました。



その後この家も、大家さんの家族が家を建てる事になり、またお引越しになります。


隣の区にある、駅から徒歩3分の場所にある、5軒長屋のメゾネットタイプの木造借家で、部屋の前には小さなお庭付きでした。


ちょっとした菜園や花壇が作れたので、茗荷を作ったりトマトやきゅうり、ナスなどを作っていました。



今私が住んでいる家の小さな花壇にも、この茗荷の根をもらい植えています。


玄関脇に植えているバラは、母の日にプレゼントして、大きく育ててくれた物を移植しました。



そうなんです汗


また大家さんの都合で、この借家も宅地にするという事で、お引越しになります。



既に私は結婚し、小さな一軒家に住んでいたので、植物を預かる事が出来たのです。



高齢になってきた両親が次に越したのは市営住宅でした。


意外と私の住む地域と近い場所でした。



父の勤めていた会社は横浜福浦の工業団地の方へお引越しをしてしまったので、スクーターで通勤するのは5区もまたがり少し遠く時間がかかってしまいましたが、65才まで勤め上げました。



この頃の母はお洋服の縫製のお仕事をしていました。

小さな職場だったので、流れ作業というよりはある程度まで1枚の物を縫い上げる様な感じだったそうです。

ミシンを使えるパートさんは皆さんお洋服を趣味で縫える方々だったそうです。




横浜市営住宅は長く住むだけお家賃が上がっていくシステムだったため、今度は藤沢市の公団へお引越しをします。



妹が藤沢市に住んでいたので、色々と詳しく、湘南台に20年間借り上げというお約束はありましたが、新築マンションの公団を見つけてくれて、申し込みをしたところ、当選できました。



バリアフリーの明るいマンションで、私の自宅と妹の自宅のちょうど真ん中辺りの立地でした。




仕事が無くなった父は、自転車を買い、いろんな場所へ散策しに出かけていました。


スクーターもまだ所持していたので、重たい買い物はバイクで行っていた様です。


散歩をするのにちょうど良い川沿いの散歩道も近かったので、運動と称したお散歩を夫婦でしていました。


川沿いには桜並木もあって、春はとても綺麗です。





長くなりました。



最後まで読んでくださった方々、まだ続きがありますので、後日またよろしければ訪問してくださいお願い


ありがとうございました。