坂本城(2) 令和6年現地説明会にて | 落人の夜話

落人の夜話

城跡紀行家(自称)落人の
お城めぐりとご当地めぐり

坂本城(大津市)の石垣が発掘されたなどと聞いては、そして現地説明会が開かれるとなると、睡眠時間を質に入れてでも行かねばなりません。

私は30年以上にわたる明智光秀推しなのです。

 

情報によれば現地説明会は整理券方式で、配布場所はJR湖西線「比叡山坂本」駅前広場、配布時間は朝9:30から。

まだ暗いうちに起き出し、取るものもとりあえず家を出て8時前に比叡山坂本駅前に着いたら、すでに長蛇の列ができていました。

 

「あの…私で何番目くらいですか?」

“最後尾こちら”の案内板を持った若いお兄さんに聞いてみたら、

「まだ120人くらいですよ」

と、にっこり笑ってくれました。

 

ひゃ、120!?

1時間半以上前に来て、すでに120!?

ば、化け物か…

 

ガンダム世代のおっさんだけにわかるコンスコンごっこを脳内でかまし、しかし表情には出さずお礼を言うと、

「大丈夫ですよ、まだ1回目の現説に入れます」

と、優しいお兄さんは付け加えてくれました。

1回あたり定員150人で、今日は4回目まであるとか。

 

ほっとして列に並んだ私の後ろにもどんどん人がやってきて、赤い彗星みたいな速さで遠ざかって行く“最後尾”の案内板。それを遠望しつつ、私は感慨にふけっておりました。

 

私が学生の頃は城跡の現説に来るのなんて、クセ強そうなじいさんか暇そうなおっさんと相場が決まってました。それが今や若い男女に家族連れ、ディズニーランドのアトラクションにでも並んでそうな客層がわんさかやってきています。

坂本城はNHK大河にもなった明智光秀がらみ、しかも事前の報道効果もあったのでしょう。

 

明智光秀の「幻の城」坂本城跡から石垣発見…野面積みの外堀か : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

 

(それにしてもコマーシャルしすぎや。NHKまで全国ニュースで流しよってからに。あちこちから戦国オタクが集まってしまうがな…)

などと、自分のことを棚に上げて心の中で愚痴りつつ、寒さこらえて待つこと約1時間半。

 

 

ようやく手に入れた整理券は現場までの地図つきA4用紙。

現場はここから歩いて20分ほどの距離で、開始は10:15だそうです。

 

「整理券がないと現場には入れません。住宅地なんでお静かにお願いします…」

係の人から注意事項を聞き、各自歩きだす戦国オタクたち(私含む)。

ちょっと時間に余裕があるからコンビニ寄ってこうかな…

 

 

うわっ。

現場に到着したらもう人だかり。テレビも来てるやん…

ちょっとコンビニに寄ってる間にロープ際は全部取られてて、とても入り込む余地がありません。

整理券もらって安心しすぎたようです。過酷な(;´Д`)

 

 

 

仕方ないので拡声器から聞こえる解説に耳をそばだてつつ、まず出土品コーナーへ。

注目すべきは「オール」のような木製品で、坂本城は水堀の中を舟が行き交っていたことがうかがい知れるわけです。

 

おっと、解説がおわって人が動き出しました。

遺構のほうへ行ってみましょう!

 

 

 

「オール」様の木製品が発掘されたのは、この石垣に対し垂直に交わる石積み遺構のあたりとか。

解説の中でも、この場所が「舟入」だったのではないかという推測を披露されていました。

 

連想されるのは島津四兄弟の末弟・島津家久の日記(『中務大輔家久公御上京日記』)。

そこには家久が伊勢参りの旅に出たとき、坂本城で明智光秀の接待を受けたと記されています。

天正3年(1575)5月14日のことです。

 

―其うしろに舟さし着、明智殿参会有へき由有之候間、罷出、紹巴、行豊なと同舟、其侭明智殿城を漕まハりみせられ候…(『中務大輔家久公御上京日記』)

 

明智殿が主催される宴に向かうため、(家久が)滞在する宿の後ろに迎えの舟が着けられた。連歌師の里村紹巴らと同舟して行くと、明智殿はそのまま城内の堀を漕ぎまわって案内してくれた…

「水城」だったという坂本城の情景がまぶたに浮かぶようですが、このようなシーンが出土品からも裏付けられたとみるべきなのでしょう。

 

 

 

今回発掘された遺構の目玉は、なんといっても約30mにおよぶこの長い石垣です。

ここは三ノ丸外周の石垣と推定される部分で、今までの推定よりも城域が100mほど狭いことがわかったようです。

 

 

転用石も多数出ています。

思わず福知山城(福知山市)の石垣を思い出しますが、もはや明智光秀築城術の得意技と言ってよいかも知れません。

 

他にも、渇水時の湖岸に露出する本丸部と異なり石垣の基底部に「胴木」は確認できなかったこと、石垣が大きく崩れた様子があること、さらにあくまで解説の方の個人的見解ながら、それは天正地震(天正13年11月29日:1586/1/18)の痕跡ではないかということ等々、非常に興味深い解説の数々でした。

 

なお、天正地震の発生時、羽柴秀吉はたまたま坂本城にいて、ここから本拠の大坂城(大阪市)へ急ぎ帰っています。

そう思うと、わずか15年の寿命だった坂本城が廃城となったきっかけも、単に大津城(大津市)への部材転用だけに留まらないのかも知れません。

 

 

 

私個人的に最も注目度が高かったのはこちら。

石垣の背後に掘られた溝です。

 

通常、このような場所に溝を掘ることは石垣の強度に影響するため、現時点では何のために掘られたのか謎だそうです。

ただ、例によって「仮説ながら」と前置きして解説してくれたのは、落城前の状況です。

 

天正10年(1582)6月14日、守将の明智秀満および明智一族が自害して果て、坂本城は落城します。

そのあたりの状況は拙ブログの過去記事などご覧いただくとしまして。

 

坂本城 左馬之助湖水渡りと倶利伽羅郷 | 落人の夜話 (ameblo.jp)

 

城を守っていた留守衆は羽柴方の来襲を想定し、急遽、外堀の後ろにもう一つ堀を掘って二重堀にしようとしたのかも知れない。この溝がV字型になっていることからも、ここからさらに掘り拡げようとしていた可能性も…

というお話を、私は研究者の洞察力とイマジネーションに脱帽する思いで聞いておりました。

 

さて。

この、きわめて貴重な遺構は今後どうなってしまうのか。

やはり埋め戻されて、この上に住宅でも建ってしまうのか。

どうしても気になるところですが、大津市としては何とか「保存」の方向性がとれないか模索されているのだとか。

私にできることがあればぜひ使いっ走りでも雑用でもしたいところですが、解説の方からの要望は「地域の人の迷惑にならないようマナーよく見学してほしい」でした。

 

それはむろんのこと。遺跡保存も研究も、今後どうかよき方向に進みますように。

 

**********

 

JR比叡山坂本駅方面へ歩いて帰る途中、腹が減ってみつけた店が「豚丼信玄」でした。

 

炭火焼豚丼 信玄 – 豚丼・トンテキ・他人丼 (butadon-shingen.com)

 

なんで「信玄」なのかよくわかりませんが、うまそうな店構えです。

さらに滋賀県のご当地チェーンとあっては、ご当地グルメハンターとしては入らずにはおれんでしょう。

 

 

「お待たせしました~」

 

はやっ。注文して5分ほどで出てきました。

こちらは「うす切り豚肉のかぼす丼セット」。

 

まず注意しなければならないのは、「並盛」のご飯が世間一般でいう感覚の「大盛り」だということ。これは少食のひと要注意です。

しかし味は実においしい!

 

豚肉のうまさはもちろんながら、ネギの新鮮さ、タレとカボス汁が別添、多様なラインナップもポイント高い。

私は満たされた気分で、マナーよくごちそう様をして帰ってきたのでありました。

 

 

<2/21追記>

明智光秀の坂本城、石垣保存へ 宅地造成工事は中止 国史跡指定を目指す - 産経ニュース (sankei.com)

 

 

 

クローバー訪れたところ

【坂本城跡(現地説明会場)】滋賀県大津市下阪本3丁目

【炭火豚丼信玄 下阪本本店】滋賀県大津市下阪本6丁目13-19