過日、いつも聴いてるラジオKiss FM KOBEが、「9月19日は名字(苗字)の日」という情報を教えてくれましてね。
なんでも明治3年(1870)、太政官が「平民苗字許可令」を発布した日なんだそうです。
「へー」と思ったついでに名字についてちょっと考えてみたんですが、日本の名字で多いのは「佐藤」「鈴木」がツートップ。これは良く知られていますよね。
佐藤さんに至ってはなんと全国で180万人以上いるみたいです。
一方、私自身はわりと珍しい名字を名乗る身でして、調べたら全国でも1000人くらいしかいないとか。
思えば子供の頃から「一般的な名字」への憧れがありましたよ。
では戦国武将で珍しい名字といえばまず「長宗我部」が思いつきますし、ほかにも「明智」や「陶」あたりも珍しいですよね。
そんな中、今回ご紹介したい戦国の名字はかなり珍しいうえに、一見するとちょっとギョッとするかも知れません。
その名字は「人首」氏。
陸奥国江刺郡人首村、現在の岩手県奥州市江刺区あたりに存在した国衆でした。
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岩手県奥州市江刺区米里人首町。
地名の由来は古代、坂上田村麻呂が「悪路王」と呼ばれた「鬼」を退治した伝説に遡ります。
鬼死骸と鬼首温泉 みちのくの鬼巡り② | 落人の夜話 (ameblo.jp)
悪路王の弟にあたる大武丸もまた田村麻呂に敗れて鬼死骸村に葬られる訳ですが、そのとき大武丸の子・人首丸がこの地まで逃げ延び、大森山に立てこもって抵抗しました。
人首丸は善戦したものの兵糧攻めにあい、ついに朝廷軍に討たれたのが大同元年(806)の秋。当時15~16歳の少年であったと云います。
「人首」は「ひとかべ」と読みます。
もとは「ひとかうべ」、つまり文字通り人間の頭部をあらわす言葉だったのが、時代とともに「ひとかべ」になったと云います。
そう思うと、やはりここにもみちのくの「鬼」にまつわる歴史が込められているようです。
ということで、城下町にあたる米里集落を歩いていると、今回の目的地である人首城跡の案内板を発見。
案内板もなかなか年季が入ってますねえ(^^;
城跡はここから40mほど高い丘陵上にあります。
ゆるやかな坂を登って行きますと、すぐ石垣の跡が見えてきます。
その先の廃屋は…なんでしょう、植物の絶妙な絡み具合がかなり吸引力があるんですが、平成の初めくらいまでは…いや、昭和の時代くらいまでは人が住んでたかも知れませんね。
人首城は築城時期など不明点が多いんですが、天文(1532~1555)の頃には葛西一門・江刺重胤の次男が人首氏を継ぎ、人首如清を名乗ったといいます。
が、天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置によって宗家の葛西氏が没落すると、旧葛西領は秀吉の家臣・木村吉清に与えられました。『仙臺領古城書上』によるとその頃の城主は安蘇修理なる人だったようですから、人首氏の支配も終わったようです。
天正19年(1591)、葛西大崎一揆が勃発したとき、一揆勢の中には人首権太夫(『奥州葛西動乱記』)の名があります。この頃には城を追われて牢人していたのでしょう。
一揆の鎮圧後、木村吉清が改易されると当地は伊達政宗領となりました。
はい、そんな話の間にも城跡の入口に到着。
この辺はもう大手口だったみたいです。
そこから城跡を望む。
削平地が見えているのは三の丸あたり。この城は本丸から三の丸まで横ならびになった、いわゆる「連郭式」で、二の丸と三の丸の間が堀で仕切られている。そんな縄張りです。
三の丸に登ってきました。
けっこう広い曲輪の端に石碑がふたつあって、一つは明治期の俳人・河東碧梧桐の句碑でした。
「人首と書いて何と讀む寒さかな」
うーん…
正岡子規に「冷やかなること水の如く」と称された碧梧桐のこと、初めてこの地名を見たとき、なにやら背筋がぞわぞわした心持ちをそのままあらわしたんでしょうか。
[上左]本丸に至る大手虎口。
[上右]二の丸北側の切岸。
城跡はもっと荒れてるかと思ってたんですが、こんな感じで草を刈ってくれてて見やすくなってます。
ありがたいことです。
本丸に鎮座する神社。
慶長11年(1606)、伊達政宗は人首城に家臣の沼辺重仲を派遣。
一国一城令(慶長20年:1615)による廃城をまぬがれた当城は、いわゆる「伊達21要害」のひとつ人首要害として城下町とともに整備されています。
沼辺氏の人首支配は10代にわたって明治維新まで続き、明治2年(1869)、ようやく廃城となっています。
そして名字由来netで調べたところ、「人首」というこのきわめて珍しい姓の方は、今も全国で100人ほどおられるのだそうです。
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訪れたところ
【人首城跡】岩手県奥州市江刺米里荒町