巣伏古戦場と胆沢城 みちのくの鬼巡り① | 落人の夜話

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この夏の暑さにやられたのか少々体調を崩しまして、ブログのほうをご無沙汰をしておりました。

皆さんいかがお過ごしだったでしょうか。

 

生存アピールを兼ねて記事を更新しなければと思っていたら、こないだ街で面白いTシャツを着た人を見かけましてね。

 

 

「鬼死骸」Tシャツです。

 

げっ、なんですのあれ。なんか不吉なもん見てしもたわ…と目をそらすか。

はたまた怖いもの見たさに思わずガン見してしまうか。

 

反応の別れるところでしょうが、そもそも怖いものや不気味なもの、未知のものに触れたとき、人は好奇心を刺激されて一種の興奮状態となります。

安全が確保された恐怖は退屈な日常にスリルという非日常をもたらし、また日常に戻って安心感を得ることで心の新陳代謝がおこなわれる訳です。

それはあたかもサウナで汗をかいたあと外気に涼んで身体を休める行為と似ていますが、このTシャツを着た人もそんな新陳代謝を楽しんでいるのでしょうか。

 

聞けばこのTシャツ、岩手県一関市にふるさと納税すれば返礼品でもらえるそうです。

なので今回は一関市にある旧「鬼死骸村」を訪ねた記録を出そうと思ったのですが、その前にまず、みちのくの「鬼」のルーツから辿ってまいりましょう。

 

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「陸奥(みちのく)」と呼称された東北地方において、古代より朝廷にまつろわぬ人々は「蝦夷(えみし)」と呼ばれ、また時に「鬼」と呼ばれて恐れられました。

そしてみちのくの「鬼」と特に因縁が深いのは、日本史に名高い桓武天皇でありましょう。

 

宝亀11年(780)は光仁天皇の御世。

朝廷に帰順していた蝦夷の族長・伊治呰麻呂が反乱を起こし、またたくまに陸奥国府であった多賀城(多賀城市)まで陥落。衝撃を受けた光仁天皇はすぐさま中納言・藤原継縄を征東大使に任じ討伐を命じました。

が、継縄はぐずぐずと都に居座って出立しようとせず、代わって征討軍を率いた大伴益立は現地に到着しながら半年近くも攻勢に出ず、その後派遣された藤原小黒麻呂もみるべき戦果をあげられませんでした。

 

翌年、天応元年(781)4月。

光仁天皇は病を理由に息子の山部皇子(桓武天皇)へ譲位。そこには混乱収まらぬ蝦夷情勢の収束を期待する意味もあったことでしょう。

 

延暦7年12月(789.1)。

朝廷は蝦夷征伐にむけた大規模な動員をおこない、桓武天皇の期待と激励を受けて長岡京を進発した征東大将軍・紀古佐美は、翌年(延暦8年)3月には多賀城に到達。参集した朝廷軍はおよそ2~3万と云われます。

その勢いで衣川(奥州市)まで駒を進めた朝廷軍ですが、ここでまたしても動かなくなってしまいました。

 

しびれを切らした天皇は5月、現地に勅使を派遣。

 

―経卅余日。未審。縁何事故致此留連。居而不進。未見其理…(『続日本紀』)

 

「前の報告から30日以上経過しているのに、いまだ進軍せず(衣川に)逗留しているとはどういうことか。理由がわからない」

天皇の叱責を受けた紀古佐美は、もはや進撃するほかなくなりました。

 

 

岩手県奥州市。

東北自動車道を奥州スマートICで降り、水沢東バイパスに乗って北上する途中、右手側を注意していると物見櫓のような建物が見えます。

これが巣伏古戦場公園のシンボル的な建物です。近づいてみましょう。


 

 

物見櫓の麓まで来ました。

設置された銅板には「蝦夷の群像」と銘打たれた案内が見え、傍らの巨石には「巣伏の戦いの跡」と書いた石板がはめ込まれていますね。



おっと物見櫓には登れるようです。

せっかくなので登ってみましょうか。


 

おお、広い。

そして目の前に広がる田んぼには毎年「アテルイの里の田んぼアート」が描かれるらしいのですが、訪れたこの年(2022)は武漢コロナ禍の影響で一時停止されていました。

今年(2023)からは再開されているようですよ。

 

ホーム|アテルイの里の田んぼアート|岩手県奥州市 (biglobe.ne.jp)

 

そう、このあたりは「アテルイの里」と呼ばれています。

それは8世紀末から9世紀初頭にかけて活躍した蝦夷の族長・阿弖流為(あてるい)の本拠地・胆沢があり、ここが朝廷軍を迎え撃つ戦場となったからです。

 

 

奥州市内にもう一つある「巣伏古戦場」の碑。

こちらは近年、有志によって建立されたのだそうです。

 

 

延暦8年5月。

衣川を発した朝廷軍は前・中・後の三手に分かれ、蝦夷の本拠・胆沢を目標としてそれぞれ進軍を開始。

前軍(兵数不明)が西岸を、中・後軍およそ4千が北上川の東岸をそれぞれ北上しはじめました。

 

対する蝦夷軍の総帥は阿弖流為。

『続日本紀』にみえる戦況はこうです。

まず東岸の中・後軍は迎撃に出てきた300ほどの蝦夷軍を追いつつ北上し、途中の村々に火をかけながら巣伏村に至ります。

しかしここで、突如あらわれた蝦夷軍の主力約800の突撃を受けました。巣伏の戦いです。

 

激戦のさなか、右手の山から後方から次々と出現する伏兵に中・後軍は浮足立ち、最後は北上川に追い落とされるようになって壊滅。

西岸を行く前軍も蝦夷軍に前進を阻まれるなか、対岸の散々たる敗戦をみて退却。

阿弖流為が取った戦術はまるで島津の「釣り野伏せ」で、数で圧倒していたはずの朝廷軍は三手すべてが崩れて大敗。

桓武天皇にとって最初の蝦夷征討は失敗に帰し、東北はまさに「鬼門」となりました。

 

 

ちょっと車で移動しまして、胆沢城跡歴史公園にやってきました。

公園内には奥州市埋蔵文化財センターがあり、発掘成果に基づく知識も得ることができます。

 

奥州市埋蔵文化財調査センターのホームページ(公式) (oshu-bunka.or.jp)

 

桓武天皇を「鬼門」の脅威から救ったのは、延暦20年(801)、征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂です。

今も東北地方各地に伝説が残る田村麻呂は、延暦21年(802)、蝦夷の本拠だった胆沢を攻略して胆沢城を築城。

抵抗をあきらめた阿弖流為がもう一人の族長・母禮(モレ)を伴って降参したのも、この城柵の築城中でありました。


 

立派な城壁などが復元された歴史公園ゾーンを通り過ぎると、史跡の真ん中を道路が突っ切っています。

ちょっと渡ってみましょうか。


 

 

横断歩道を渡ったところ。

ここらが政庁など胆沢城の中心ゾーンがあった場所だそうで、原っぱの中に石碑と想像図がありました。

 

この辺りはご覧の通り原っぱのままで復元物もなく、城跡といっても古代城柵なので役所の意味合いが強く、防御遺構や縄張りの妙を楽しむ余地もほぼありません。

歴史ファンの想像力が試される場所と言えそうです。


ただあえて想像するなら、この土地は田村麻呂に征服される前は蝦夷の本拠地でしたから、相当の規模の集落があったことでしょう。

たとえば三内丸山遺跡(青森県)にあるような巨大な掘立柱建物や、大型の竪穴住居が立ち並ぶ縄文系集落を想像すべきでしょうか。


朝廷軍を大いに悩ませ、「鬼」と恐れられた阿弖流為のお膝元が当時どのような様子であったか。

私としてはそれも非常に興味深いのですが、今のところそのよすがは得られませんでした。


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岩手県奥州市が輩出した有名人といえば、今や日本を、いや世界を代表するメジャーリーガー・大谷翔平がまず挙げられるでしょう。


しかし現地ではそれと並ぶほど…

というのは言い過ぎかも知れませんけども、歴史的ご当地ヒーローとしての阿弖流為の人気は相当なものです。



 

こちらは「アテルイ広場」。

その名の通り阿弖流為を顕彰するためだけに設けられたスペースです。


 

埴輪風のこのモニュメントもむろん阿弖流為をイメージしたもの。

こちらはまことに勇ましい芸術作品に仕上がっておりますね。


 

一方こちらは上述の「奥州市埋蔵文化財調査センター」内で会える、リアルめな阿弖流為さん。

個人的にはもうちょっと盛り上がった肩や、発達した顎なんかを想像するんですけどね。


しかしまあこうして見ると、当然ながら想像上の「鬼」ではなく生身の人間として、また我々の先祖の一人としての彼らを身近に感じますよね。



さてと…

また長々と書き連ねてしまって「鬼死骸」まで辿り着けませんでした(;´Д`)

そちらはまた次回とさせていただきましょう。


 

 

クローバー訪れたところ

【巣伏古戦場公園】岩手県奥州市水沢佐倉河北田

【巣伏古戦場の碑】岩手県奥州市江刺愛宕大畑

【胆沢城跡歴史公園】岩手県奥州市水沢佐倉河九蔵田

【阿弖流為の郷(アテルイ広場)】岩手県奥州市水沢東大通り3丁目3‐17