悲劇的な最期を遂げた歴史上の人物が、実は密かに生き延びていた…
という生存伝説を耳にすることがあります。
有名なところでは、源義経は衣川で死なず海を渡ってジンギスカンになり、また明智光秀は天海となって100歳の寿命を得、また豊臣秀頼は真田幸村に背負われて薩摩まで逃げたのであります。
荒唐無稽な珍説もあれば、もしかしてひょっとして…と、何やら真実味を帯びて語られる場合もある訳ですが、実は我らが斎藤龍興にも生存伝説が存在しています。
斎藤龍興シリーズ【番外編】と銘打った今回は、その伝承地を訪ねてみましょう。
富山地方鉄道「布市」駅から南へ10分ほど。
田んぼのなかに集落が点在する風景をしばらく歩くと、一見なんの変哲もない寺院に到着します。
ここが興国寺。
昔は布市藩の陣屋があった場所だそうです。
「布市(ぬのいち)藩」
といっても、ほとんどの人が聞き慣れないでしょう。
江戸時代の初期、ここに8年間だけ存在した小藩があったのです。
石高1万石。藩祖は土方雄久。
関ヶ原の合戦(慶長5年:1600)の折、徳川家康の密命を帯びた土方が前田利長への使者となり、東軍への勧誘をおこなった功により宛がわれたのが藩のはじまり。
しかし土方は慶長13年(1608)に能登へ転封となり、布市の地は加賀前田家に編入されて藩は消滅しました。
門をくぐって境内にはいると、案内板がありました。
私はこういうのは読む質でして、いつものように眼鏡をずりあげて読んでみます。
なになに、「当山は臨済宗国泰寺派で太平山と号し、戦国時代の武将桃井直常が興国六年(一三四五)に創建…」
ええと、正確には桃井直常は南北朝時代の武将ですね。
だいたい興国6年(1345)は戦国時代じゃないだろ…
ご容赦願います。
おっさんはこういう時、ぶつくさツッコミを入れたがる生き物なのです。
ともかく、この寺の創建が南北朝時代に遡るものであることはわかりました。
境内にみえるあの五輪塔は桃井直常の墓なわけですね。
ただ布市藩のことは一言も書いてませんし、今回の主目的である寺伝のこともまったく触れられていません。その痕跡もありません。
ごく普通の見た目とは裏腹に、ある意味、難易度の高い史跡のようです。
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では、この寺に伝わる斎藤龍興生存説、「越中の九右ェ門」の伝説を確認しておきましょう。
時は永禄12年(1569)3月。
戦に敗れた斎藤龍興は、浅井長政からもらった鞍や家系図などの家宝を携えて布市に逃れ隠れた。
そして天下の情勢をみて御家再興の困難を悟るに至り、「九右ェ門」と名を変えてこの地に住みつくことにした。
九右ェ門は「仏の力、経の力」を唱えて人々を励まし付近を開拓したので、天正8年(1580)、その村を「経力村」と名付けた。いまもその字名がある。
慶長16年(1611)、九右ェ門は子に家督を譲って隠居。
同時に興国寺で出家して住職となり、寛永9年(1632)に死去。87歳の天寿を全うした…
<寺の周囲は静かな田園風景>
ふむふむ。
個人的にはこうした口碑伝説の類は好物でして、思わず口元がほころんでしまいます。
私が思うに、この伝説には面白いところが2つあります。
ひとつは、龍興が当地に逃げてきたという日時。
「永禄12年(1569)3月」というやけに具体的なこの時期は、史実では本國寺の変(永禄12年1月)の直後。この合戦で敗者の側に居た龍興は、戦後に浅井長政や朝倉義景の領地である北近江や越前を通過し、越中まで逃れたことになります。
となれば、野田・福島の戦い(元亀元年:1570)や小谷城攻防戦(元亀元年~天正元年:1573)に参戦した龍興は、あれは偽物ということになりますねえ。
もうひとつは、明らかな嘘が混じっていること。
試しに「経力村」の由緒を調べますと、下記のような結果が出てきます。
―中世は太田保のうちにあったとみられ、現新潟県小千谷市魚沼神社所蔵の大般若経巻三三七の奥書に明徳三年(一三九二)九月八日の年記銘とともに「太田保経力長福寺書写畢、執筆乃尊」とある…(『日本歴史地名大系』平凡社)
つまり「経力村」は九右ェ門が開拓して名付けたのではなく、ずっと昔から存在していた訳です。
生存説は通常、歴史上の貴人や名を成した人物に贈られる栄誉のようなもの。
在りし日の勇姿と無念の死を惜しんだ世の人が、リスペクトとロマンを込めて密かに語るものでありましょう。
しかし、なぜ斎藤龍興のような愚…
いや失礼。世に「愚将」だ「負け犬」だと後ろ指さされてきたこの人物に、なぜこの栄誉が与えられているのか。
私にもよくわかりません。
…というのも味気ないので、ちょっと妄想の翼を広げてみましょう。
その前に、なんだかお腹がすいてきました。お昼にしましょうか(^^)
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ということで、味気のあるところにやってきました。
北陸・北信地方に展開するご当地ファミレスチェーン、「あっぷるぐりむ」富山呉羽店です。
あっぷるぐりむ | あっぷるぐりむグループ (appleivy.co.jp)
ここの人気メニューは国産牛100%の「旨ハンバーグ」とのこと。
それにしましょう。
きました!
「旨ハンバーグランチ」1150円。
オニオンリングが3つ乗った豪華版ですね。
いやあ、腹が鳴りますねえ。さっそくいただきましょう。
む…美味い!
さすが国産牛100%。肉の旨味が濃い感じがします。
こういうご当地で愛されるチェーンって、全国展開してるような巨大チェーンに比べると、同じメニューでも明らかにコスパが良いようです。
ぜひ頑張っていただきたいですねえ(´~`)モグモグ
さて。
歴史上の著名人にまつわる生存説には、上記のようなリスペクトやロマン以外の要素もいくつか考えられます。
例えばただの落武者や牢人が高い身分の人名を騙った場合もあり得ますし、近代の粗悪な例では、自称郷土史家みたいな変人が吹聴しはじめた偽史がタネになっている場合もあるでしょう。
もう一つあります。
それは無念の死を遂げた人物が「実は生きていた」ということにして、怨念の害を避けようという発想です。
つまり一種の「祟り除け」で、こうした措置を欲するのはむろん、その祟りを恐れる者です。
今回のケースをこれに当てはめてみましょう。
天正元年(1573)8月。
刀禰坂の戦いで斎藤龍興を討ち取ったのは、龍興の旧臣・氏家直昌だったと云います。
直昌の父は西美濃三人衆の一人・氏家卜全で、龍興を裏切って織田信長に従ったあと伊勢長嶋で一向一揆と戦い、無残な戦死を遂げていました。
旧主を討った直昌はその10年後に病死。
家督を継いだのは弟の行広で、この人は関ヶ原の戦い(慶長5年:1600)で西軍に付いて改易となり、放浪ののち大坂城に入城して大坂夏の陣(慶長20年:1615)で戦死。
行広の子息は4人いたそうですが、出家していた1人を除いてみな死罪となり、美濃の氏家氏は没落しています。
氏家一族のうち生き残ったある者は、歴史を辿って因果の元凶を探し、先代の事績に思い当たって戦慄したかも知れません。
かつて主を殺めた“祟り”に違いない、と。
であれば。
先代が戦場で殺した人は、実は旧主でなかったことにすればよい。旧主に当たるその人は密かに生き延びて、仏に仕える身となっていたのだ。我こそがその人に代わって世に伝えよう…
幽霊を見た人が思わず経を唱えるように、古来、経の力は祟りに勝ります。
突然のように「経の力」が入り込んでいる伝承の背景にも、もしかすると…
などと、旨いハンバーグに舌鼓を打ちながら、そんな考察もどきの妄想に浸ってみるのもまた、私なりの戦国ご当地ロマンなのでありました(^^)
訪れたところ
【興国寺】富山県富山市布市803
【あっぷるぐりむ富山呉羽店】富山県富山市茶屋町512-1