狐崎城と葛西塚 忘れられた葛西七騎 | 落人の夜話

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城跡紀行家(自称)落人の
お城めぐりとご当地めぐり

岩手県の釜石市街から国道45号線を北上し、連続するトンネルを抜けて「水海」交差点を過ぎると、急に目の前が開けて両石湾が見えてきます。

その先にまた「水海トンネル」というトンネルがあらわれるんですが、今回わたしが目指す場所はこのトンネルの真上にあるとか。

 

見渡してみるとトンネルの右手から山に入れそうな気配。ほとんど斜面を直登するように登り始めると、かつて山道があったらしきかすかな踏み跡に出ます。

この先に、本当に…?

といぶかりながら前進するうち、木の枝に結び付けられた、色褪せたリボンがひとつふたつと目に入ります。訪れる人のための目印で、こんな所にも先達がいるようです。

 

 

ストックで枝や蜘蛛の巣を払いつつさらに進むと、どうやら古い墓碑群が見えてきました。

どうみても史跡として整備されている風情ではありませんが、ひいふうみい…と数えると墓碑は確かに7つあります。

 

間違いありません。

ここが「葛西塚」です。

 

 

墓碑の周辺には「平成十六年九月」付けの案内板が朽ちて倒れていました。

17年前。わずか、と言えるかどうか微妙な時間ではありますが、その間にいつしか整備する人もなくなり草に埋もれ、地元の人にさえほとんど忘れられてしまった模様です。

 

怪談的には「供養されない霊は祟る」というパターンが…

などと、つい余計なことを思いついてしまい、山の中にひとりたたずむ自分を認識して一瞬背筋が寒くなります。

が、よく考えればいずれも没後400年を超える御霊。いまさら荒ぶる年忌でもなく、すでに神となって冥界に鎮まっておられることでしょう。

 

「失礼いたしました」

わざと声に出して礼拝し、カメラを向ける無礼もお許し願ったあと、自分の踏み跡をたどって帰ります。

とりあえず現実的に怖いのはクマや虫や崖ですが、どうやらそれらに害されることもなく、私は無事、もとの世界へ戻ることができたのでありました。

 

 

慶長6年(1601)7月。

あの関ヶ原合戦(慶長5年:1600)の翌年、釜石の狐崎城に葛西氏の旧臣らが立てこもって一揆が勃発。釜石一揆(釜石の陣)です。

しかしこの一揆は伊達政宗の軍勢によって鎮圧され、残った城兵161人が皆殺しとなっています。

 

落城のとき、北を目指して落ちて行く武士の一行があったそうです。

が、鵜住居水海、つまりあの「水海トンネル」のある山中あたりで「仲間割れ」を起こし、主従7騎ことごとく「毒殺」されたと伝わり、その中に「葛西六郎」という人がいたそうです。

のちに里人が7人の霊を祀ったその場所が「葛西塚」です。

 

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遡ること8年前の平成25年(2013)5月29日。

私のアメブロ投稿第1回は、岩手県釜石市の狐崎城跡でした。

 

狐崎城 現在の大事な役割 | 落人の夜話 (ameblo.jp)

 

このときは東日本震災からやっと2年が経ったころ。

まだ被害の爪痕が生々しい時期だったのですが、震災10年目となった今年、コロナ禍の緊急事態宣言の合間を縫って、私はまた狐崎城を訪ねてみたのです。

 

 

 

あのとき歩いた狐崎城跡はなにも変わらず、そこに鎮座していました。

 

ただ、あれから私は多少勉強をして、この城にまつわる知識を増やしてきました。

なので脳内に見える情景もあの時より少し変化していて、以下は8年越しの加筆となります。

 

 

狐崎城の築城時期については不明ですが、おそらくは戦国時代の初期、もしくは室町中期ごろ。

遠野の豪族・阿曽沼氏の配下に狐崎玄蕃という者があり、これが釜石方面に土着していたことから築城者ではないかと推測されています。

その後の沿革もほとんどわかっていません。

 

この城が突如として歴史に登場するのは、慶長6年(1601)7月。

現地案内碑や『城郭大系』などによると、このとき荒谷肥後という武士が葛西家の再興を図り、鹿折信濃ら葛西家の旧臣を糾合して狐崎城に籠城。これが釜石一揆と言われます。

 

これに素早く反応したのは領主の南部利直ではなく、なぜか南に境を接する伊達政宗でした。

政宗は気仙郡の代官・中島信貞に命じ、麾下の軍勢を添えて陸路と海路から狐崎城を攻めさせています。


狐崎城に籠城する一揆勢は200足らず。海陸から攻め寄せた伊達勢との間に攻防戦が繰り広げられたもののあえなく落城し、一揆勢161名がなで斬りにされました。

城跡の東側には今も「首切沢」の地名が残っていて当時の惨劇を伝えていますが、「葛西塚」の7人もこのとき城を脱出した人々だったわけです。

 

 

しかしこの釜石一揆なるもの、実はかなり不可解な事件です。

まず関ヶ原合戦から1年近くたち、徳川の世が固まりつつあるなかで発生していること。

しかも蜂起の理由が「葛西家の再興」という、関ヶ原以前ならまだしも、この時には到底現実的とは思えないもの。

そのうえ鎮圧したのが領主の南部家ではなく伊達政宗であることなど、多くの疑問点をはらんでいます。

 

なお、伊達勢に領内の一揆を「鎮圧」された南部家は、急ぎ盛岡から軍勢を動員。

これをみた伊達勢は対陣を避けて撤収し、ここに一連の騒動は収束しています。

 

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慶長5年(1600)9月。

諸大名を二つに割った関ヶ原合戦は東北地方にも大きな余波をもたらし、前後には南部領の和賀・稗貫郡(花巻市)一帯で岩崎一揆(慶長5年9月~同6年4月)が発生するなど不穏な兵乱が続きました。

 

岩崎一揆については伊達政宗の暗躍がよく知られていて、関ヶ原前後の混乱に乗じて一揆を扇動し、版図の拡大を狙ったものとされています。

この岩崎一揆は翌慶長6年4月まで続きますが、結局は南部家によって鎮圧され、首謀者の和賀忠親は伊達領に逃れたあと5月に殺害されています。口封じのためでありましょう。

 

釜石一揆が起こったのはその直後。

ですから釜石一揆も伊達政宗の扇動によって起こったとすれば、伊達家がわざわざ越境して鎮圧軍を派遣したこともうなずけます。

このころの政宗が続けざまに繰り出した権謀術数には、「他領で一揆を扇動し、鎮圧する名目で軍事行動を起こして領土拡大を図る」という基本戦術が透けて見えるからです。

 

しかし、私にはこれも疑問に思えます。

そもそも釜石一揆なるものは、本当に南部家に対する反乱だったのか。

 

「葛西塚」に祀られた7人の武士は、狐崎城を脱したあと北へ、つまり南部家の城があった大槌方面に向かっています。

主家に弓を引いて一揆を起こした人々が、仕損じたあとその主家を頼って逃れるでしょうか。


ここで考えられるもうひとつの可能性は、そもそも彼らは南部家の配下、つまり狐崎城に籠っていたのは一揆などではなく、歴とした南部方の守備隊だったということです。


当時の南部家中は岩崎一揆への対応のため混乱しており、配下の軍勢もただでさえ広い南部領の北部にかたよっていました。

南隣に境を接する伊達政宗がその様子を傍観していた…とは考えにくく、逆にいえば釜石一揆への素早い対応は、彼がその状況に虎視眈々だったことの傍証でもありましょう。


個人的な推測ながら、釜石一揆なる事件の真相は、単に「伊達政宗による南部領への軍事侵攻」だったのではありますまいか。

政宗は岩崎一揆が失敗したあともなお南部領への介入を企て、釜石方面が手薄なのに乗じて狐崎城に攻め寄せた。

しかしこれは多分に威力偵察的な行動でもあって、南部家が主力を南下させて来ると本格的な衝突を避け撤退した…


伊達政宗の生涯には陰惨な策略が多く、後に大坂夏の陣(慶長20年:1615)でも犯罪的な「味方討ち」を演じ、数百におよぶ他家(味方)の兵を殺しながら居直って事なきを得ています。

南部方が置いていた守備隊を「一揆とみて鎮圧した」などと言い訳するくらい、朝飯前だったかも知れません。


だとすれば、「葛西塚」の7人も「仲間割れ」のすえ「毒殺」などという、先を急ぐ逃避行にしてはやけに悠長な死因ではなく、実は伊達方の追い討ちによって壊滅したものかも知れません。


このあたりは史料も少なく、まだまだ今後の研究を待たなければならないでしょう。

私のこの推測もひとまずは、忘れられた「葛西塚」に眠る7人に捧げておきたいと思います。


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さて。

海に臨む断崖の地に立っていた狐崎城跡。

ここから見る釜石市街の光景はずいぶん変化していました。

 

10年前のあの震災の時、多くの人がこの城跡にのがれて助かったそうです。

その後ここは津波避難場所に指定されています。


初めて釜石を訪ねた8年前、ここから望んだ風景は更地が多く、いかにも復興途上でした。

でも今はあらたな防潮堤が完成し、港にも市街地にも建物が立ち並んでいた釜石市をみて、私はあの時の無力感とは違う、古い友人の活躍を見るような喜びを感じていました。


いいぞいいぞ、その調子…

崖の上で小躍りしつつ、私はひとり勝手に喜んでいたのでありました。


 

 

クローバー訪れたところ

【狐崎城跡】岩手県釜石市釜石第2地割

【葛西塚】岩手県釜石市両石町第5地割