亀田陣屋と妙慶寺 岩城といわきと真田の縁 | 落人の夜話

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城跡紀行家(自称)落人の
お城めぐりとご当地めぐり

日本海の夕陽を眺めるのにお勧めなビュースポットのひとつに、“日本海の夕陽が美しい道の駅”を謳う「道の駅岩城」があります。

 

ここは別名「アイランドパーク」を標榜していて、なにが「アイランド」かというと… 

 

道の駅から海岸を経て道がつながる、海中に突き出た島のような護岸施設。

あれは道川漁港で、砂浜海岸でも波や砂の堆積などから船を守りやすい「島式漁港」という、珍しい形式が採用されているんです。

 

ここは道の駅ファンでもある私が大好きな場所のひとつでして、ほかにも魅力があります。

 

 

 

写真上左は併設の岩城温泉「港の湯」。

こちら日本海を望みながら浸かることのできる天然温泉で、泉質はナトリウム塩化物泉。

この地域らしい海水の温泉で、料金も310円と実に良心的なんです(^^)

 

湯上りにはあっさり風味のご当地ソフト、プラムソフトクリーム(写真上右)なんかお勧め。

イカ焼きなど海産物の屋台もいい匂いをさせてますし、ああ、思い出すだけでも楽しい…

 

 

ところで、なぜここが「岩城」か。

というと地名がそうだからなんですが、実はこの道の駅がある場所、昭和30年(1956)までは「道川村」でした。

それが隣接する「亀田町」と合併するにあたって「岩城町」の名を選んだのは、旧亀田藩2万石の藩主・岩城家にちなんでのことです。


昭和61年(1986)、旧藩主家がつないだ歴史的な縁が「親子の如し」ということで、福島県いわき市と岩城町は姉妹都市ならぬ「親子都市」の関係を締結。

その後、平成17年(2005)の大合併で岩城町は由利本荘市に合併されますが、いわき市との交流は今も続いているそうです。

 

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日本海沿岸から亀田の町に入ると、まず立派な天守閣が見えました。

 

ご覧のとおり駐車場も完備。

とはいえ、これは立派な“観光天守”で、「天鷺村」という観光施設でもあります。

史料館などをめぐれば亀田の概要がわかるので、お時間のある時にはお勧めです。

しかし本来の亀田陣屋の跡地なら、ここから歩いてすぐの高城山麓になります。

 

 

 

こちらがその亀田陣屋跡。

立派な模擬石垣と模擬城門は「佐藤八十八美術館」、主郭跡は亀田小学校の敷地になっていてほぼ遺構は見られないものの、かつては土塁と堀が取り回されていたようです。

 

 

戦国時代の亀田から日本海沿岸の松ヶ崎あたりにかけては、「由利十二頭」の一角・赤尾津氏が支配していましたが、関ヶ原合戦(慶長5年:1600)のあと赤尾津氏が没落すると山形の最上義光の領地に組み込まれました。

その最上家が元和8年(1622)に改易され、次の本多正純が転封拒否ですぐ改易になると、元和9年(1623)、信濃中村より岩城吉隆が2万石で入封。 吉隆は高城山上に築かれた赤尾津城を廃して山麓に陣屋を築き、ここに明治維新まで続く亀田藩岩城家が成立します。

 

しかし亀田に入部するまでの岩城家には、波乱の道のりがありました。

岩城家はかつて磐城地方(福島県いわき市周辺)に10万余石の勢力を有した戦国大名家。

吉隆の先々代にあたる岩城家17代・常隆の頃には、佐竹氏や蘆名氏らとともに伊達政宗と戦った“反伊達連合”の一角でした。

 

が、次第に佐竹氏の勢力に浸透され、天正18年(1590)に常隆が若死すると、常隆の実子(政隆)があるにも関わらず、佐竹義重の三男・貞隆が養子として送り込まれて岩城家を継承。

そうして佐竹の“分家”同然となった岩城家が、関ヶ原合戦後の論功行賞で本家に連座して受けた処分は、なんと所領没収でした。

 

本家の佐竹義宣が秋田への転封で済んだのに比べあまりに重い処分ですが、これによって貞隆は一時浪人する苦労を味わっています。

しかし元和2年(1616)、旧臣らと共に大坂の陣に参陣した功により、信濃中村1万石を拝領。晴れて大名に復活した岩城家は、貞隆の子・吉隆の代に亀田へ加増転封となった訳です。

 

 

 

さて、「天鷺城」から西へ歩いて10分ほどのところに妙慶寺という寺がありましてね。

 

案内板に見えるのは「六文銭」の家紋。

ここには真田信繁(幸村)の娘・(でん)こと顕性院、それに彼女の親族にあたる真田一族の供養塔があるんです。

 


慶長20年(1615)年。

大坂夏の陣において豊臣家は滅び、真田信繁も討死。

父に連れられ入城した大坂城から逃げのびた田(でん)は、やがて捕らわれたものの処分は軽く、江戸城内で奉公する形に落ち着いていたようです。


妙慶寺の伝承によれば寛永3年(1626)。

彼女が給仕を務めたある日、佐竹義宣の目にとまって出自を問われたそうです。

驚いた義宣は、彼の弟にあたる宣隆と彼女の縁組を仲介。宣隆はのちに亀田藩岩城家を継いで2代藩主となり、宣隆と田(でん)の間に生まれた重隆が3代藩主となっています。


そう思うと、岩城家をめぐる歴史的な縁はこの地といわき市に留まりません。

あの真田信繁の娘を通して、大阪市や紀州九度山のある和歌山県あたりとも交流が広がったらいいなあと私などは思いますが、どうでしょうか(^^)


 

 

 クローバー訪れたところ

【天鷺村】秋田県由利本荘市岩城亀田亀田町亀田町92-2

 http://amasagimura.com/

【亀田城(佐藤八十八美術館)】秋田県由利本荘市岩城下蛇田高城4

【妙慶寺】秋田県由利本荘市岩城亀田最上町104

【道の駅岩城】秋田県由利本荘市岩城内道川字新鶴潟192-43

 http://www.michinoeki-iwaki.com/index.html