先月の9月、アメーバが15周年を迎えたんですってね。
私が初めてこのアメーバブログに記事を投稿したのが平成25年(2013)ですから、利用歴は…
え?もう6年になりますか(゜ロ゜;ノ)ノ
早いもんですねえ、月日が経つのは。
利用者の一人としてまずはお祝い申し上げます。
おめでとうございます🎉
思い返せば、私が当ブログのテーマでもある「お城めぐりとご当地めぐり」を意識しはじめたのは平成22年(2010)のGW、初めての東北・車中泊旅行においてでした。
その翌年に起こったあの東日本震災を経て当ブログ開設となる訳ですが、200投稿目の区切りとなる今回は初心に戻りまして、私にとって有意義だった初めての東北旅から切り取ってみます。
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山形県村山地方に「ムカサリ絵馬」という風習があります。
これは若くして亡くなったわが子が生き続けていたと仮定し、その子が適齢期になる頃、親が見繕った架空の相手との婚儀を絵馬にしたもの。
いわゆる「冥婚」の一形態です。
そのムカサリ絵馬が盛んだった場所に、「山寺」こと立石寺がありましてね。
ふと思い出して、本棚の奥から『みどりの守り神』(藤子・F・不二雄SF短編集第2巻/中央公論社)というマンガ短編集を引っ張り出してきました。
奥書を見ると、「昭和62年(1987)初版」とあります。
なんと32年前。調べたらこの短編集自体もう絶版でした。
私は当時中学生で、実家近くの本屋でこれを見つけましてね。あのとき読み耽ってめくり続けた白いページは、縁が黄色く変色して古本特有の匂いを漂わせています。
でも、そこに収録されている珠玉のストーリー群は、当然ながらあの頃と何も変わっていません。
その中のひとつ。
山寺に伝わる風習を織り込んだSF短編『山寺グラフィティ』(藤子・F・不二雄著)が、このとき山寺へ向かった動機でした。
5月。ぬるい気候に慣れた関西人にとってはしっかり寒かった山寺の門前で、粟立つ肌をさすりながら見上げたこの看板。
山寺はこけし作りでも有名なのです。
この辺りは『山寺グラフィティ』にも反映されていて、物語の主人公はイラストレーターを目指して上京した男なんですが、「かおる」という名のヒロインは「温海こけしにそっくり」と設定されています。
若くして亡くなった「かおる」の幼なじみだった主人公が、二人にとって思い出のある山寺を訪ねるシーンが幕開けとなっています。
宝珠山立石寺。通称「山寺」。
慈覚大師円仁が貞観2年(860)に創建といいますから、その歴史は1100年以上に及びます。
戦国時代には伊達稙宗と天童頼長の争いで伊達方に与したことから、大永元年(1521)、天童方の焼き討ちを受けて一山焼失。
その際に比叡山から分灯された「不滅の法灯」を失い、後日、比叡山から二度目の分灯を受けています。
逆に比叡山が織田信長による焼き討ち(元亀2年:1571)を受けた際には、山寺から比叡山へ法灯を分けたといいます。
最上家代々とかかわりが深く、初代山形藩主の最上義光もたびたび寺領を寄進するなどして保護したようです。
山門をくぐると岩肌を削った卒塔婆が目に入ります。
それを横目に延々と続く石段を登ってゆくんですが、それなりに息が切れる長さです。
「閑けさや 岩にしみ入る 蝉の声」
とは、元禄2年(1689)にこの地を訪れた松尾芭蕉の有名な句。この辺りの風情がよく表されています。
上左は山内で一番古い建物といわれる「納経堂」。
そそりたつ岩山の上に建ち、天上から下界を見下ろすような独特の雰囲気があります。
上右は「修行の岩場」。
絶壁の岩窟と、そこに張り付いている投入堂(鳥取県)みたいな建物が見えますでしょうか。
あの辺りは行者が修行する場だったのですが、転落事故が相次いで今は一般人の立ち入りが禁止されています。
あんなとこで修行? ヒエエ…
五大明王を祀る「五大堂」より。
断崖に突き出た舞台から麓を一望できます。
奥の院。
ここに多くの「ムカサリ絵馬」が奉納されているそうです。
仏教が伝わるよりずっと以前より、この山では死者の魂が成長し続けるという信仰がありました。
「ムカサリ絵馬」の風習も、おそらくはその延長線上のものでありましょう。
さらに言えば、最上義光がこの寺を厚く保護したことも、彼がわずか15歳の愛娘(駒姫)を非業のうちに失ったことと無縁ではない気がします。
「ムカサリ絵馬」のことは近年、一部テレビなどで「怪談ネタ」として取り上げられたことから、オカルト的な「怖い風習」として語られる向きもあるようです。
が、これは一面的な見方でしかなく、本来は「子を思う親の心」を反映した供養の形です。
『山寺グラフィティ』の後半、主人公は山寺の岩穴の中で、彼女が生きて成長していたら望んだであろう品々が納められているのを見つけます。
ミニチュアの家具、東京行きの切符、女学院の入学案内…そして、「かおる」によく似たこけしが1体。
思い至った主人公は「かおる」の父を訪ね、彼がそれらの品を納めていたことを知ります。
―信じるも信じないもきみ…(『山寺グラフィティ』より)
主人公の問いに答え、「かおる」の父は言います。
―それしかないじゃないか。わしがかおるにしてやれることは…(同上)
ここに、この風習の真髄があるでしょう。
愛するわが子のために何かしてやりたいという、親なれば容易に消化できない想念を「かおる」の父は抱き続けていた訳です。たとえそれが「死んだ子の歳を数える」ようなことであっても。
だが、それもそろそろ終わりにしようと思っている。年ごろだから…
と続けて彼は、特に作らせたというもう1体のこけしを取り出します。
―嫁にやっちまえば、親の責任はそれまでよ…(同上)
それが、「かおる」の父の最後の台詞です。
彼はようやく抱え続けた想念を飲み込んで、己の中に消化することができたのかも知れません。
物語にはまだ続きがあります。
でも、結末まで書いてしまうのは野暮な気がしますからここでは触れません。
ただ、藤子・F・不二雄氏の作品における「SF」は、「すこしふしぎ」の略というのはちょっと有名な話です。
この短い物語もまた忘れがたい読後感とともに、すこし不思議な風習を残す山寺への憧憬を私たちに与えてくれるように思います。
ちょうど読書の秋。もしご興味がおありでしたら、どうぞ作品を読んでみて下さい。
収録されている短編集でいま入手できるものを探しておきました。
下記をご参照までに(^^)
訪れたところ
【立石寺(山寺)】山形県山形市山寺4456-1
※参考書籍