天正元年(1573)8月16日。
刀禰坂で織田信長に大敗した朝倉義景は、もはや越前国内に殺到する織田勢に敵する力もなく、家族近臣らと共に一乗谷を退去。
初代・孝景より5代およそ100年に渡って君臨した朝倉家の牙城を捨て、一族の大野郡司・朝倉景鏡のすすめにより越前大野へ向かいました。
その夜、「居山(亥山)の東雲寺」に到着した義景は、多数の僧兵をかかえる平泉寺(現・勝山市)に書状を出し、黄金や家宝の名品を添えて助力を乞うたそうです。しかし、
―義景是程マテ運盡ハテ玉ヒケル間、二度世ヲヒラク事難有…(『越州軍記』より)
これほどまで落ちぶれては、義景はもう復活できまい。いっそ義景の陣所を襲って手柄に…
戦国の世で落ち目になるとは、つまりこういうことなんでしょう。
平泉寺は朝倉家と代々関わりの深い大寺でしたが、今や織田方に寝返ることで衆議一決。義景はその手土産にされようとしていました。
この情勢に朝倉景鏡もまた、本家の主である義景を裏切る決意を固めました。
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亥山城が築城された時期は不明瞭ですが、『太平記』によると南北朝期の延元4年(1339)、南朝方の堀口氏政が「居山」に城を構えたとあり、 これが亥山城とされます。
文明7年(1475)には朝倉孝景が大野郡を制圧。その際、弟の光玖を大野郡司に任じ、それ以降は大野郡司家の居城となりました。
平地の微高地に築かれた城地は現在、日吉神社の境内となっています。
ただ、ここを城跡と認識して訪れる人はあまりなく、城好きの人でも大半はすぐ近くの越前大野城で足が止まるようです。
ちなみに市内には戌山城という城跡もあって紛らわしいですが、それぞれ別の城跡です。
本殿の奥には奥宮のような場所があり、ここがまた高台になっています。
櫓台のような遺構を利用したものと見えますが、どうでしょうか。
神社の表口に残る堀跡。
幅は10m以上あるようです。
今は一部しか残っていませんが、これが周囲を巡っていたとすれば、かなり立派な平城だったことが偲べます。
戦国の越前に君臨した朝倉家で、本家に次ぐ存在として、敦賀郡司家とならぶ影響力を誇った大野郡司家。
朝倉家が北近江の浅井家と連携し、織田・徳川同盟と争った元亀争乱(1570~73)において、大野郡司家の当主・朝倉景鏡の名はたびたび登場します。
本家の主・義景の従兄弟とされる彼は一門筆頭として重要な戦に何度も従軍し、いくつかの陣においては名代として総大将を務める活躍も見せています。
が、一方で彼は、経歴に謎の多い人物でもあります。
彼の父・景高は本家に謀叛を企んで追放された人物です。また、彼自身も敦賀郡司家との深刻な対立を招くなど不穏な人物像を感じさせるにも関わらず、成長とともに一門筆頭の地位を獲得しています。
当時の朝倉一門がある種の人材不足に陥っていたことも考えられますが、ある時期まで彼は当主・義景の支持を得ていたのでしょうか。
しかし、天正元年7月。
義景最後の出陣となった浅井家の救援作戦において、彼は「度重なる出陣疲れ」を理由に出陣を拒否しています。
それは朝倉家滅亡の遠因となり、ひいては自らの運命をも暗転させる分岐点となる訳ですが、これは結果を知る私たちなればこそ辿れる逆算かも知れません。
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天正元年8月19日。
亥山城の朝倉景鏡は、東雲寺に滞在する義景に使者を送りました。
―六坊エ御座有ヘシ、何事モ心静ニ可申談…(同上)
今の陣所はわが城からやや遠いようです。何事も落ち着いて相談すべく、六坊へ移られますよう…
義景一行はこれに応じ、大野六坊・賢松寺に移動。時に一行は義景の家族を含め、わずか10人前後だったようです。
翌20日。
夕刻がせまる頃になって、その賢松寺は黒い甲冑の群れに取り囲まれました。
―御運ハ今ハ是マテナリ、急ク御腹召サレ候へ…(同上)
「ご運もこれまでです。急ぎ自害なされよ…」
甲冑の群れの中からそう呼ばわったのは、つい昨日、一行をこの場所へ誘った景鏡でした。
「おのれ景鏡、必ず祟り殺してくれよう…」
鬨の声と鉄砲の音が重なるなか、義景は景鏡に呪いの言葉を吐きつつ自害。
『越州軍記』が記すその最期は壮絶です。
―刀ヲ弓手ノ脇ニツキ立テ、妻手へ引廻シ、又胸本ニ突立テ、臍ヨリ下へ切サケテ、高橋ハナキカハヤ/\頸ヲ打ト宣ヒケレトモ、介錯人ナカリケレハ…(同上)
短刀を左の脇腹に突き立てて右へ引き、さらに胸下からへその下まで切り下げ…
古式通りの「十文字腹」です。が、あまりの怒りに我を忘れていたか、側に介錯人のないまま行なったようです。
「高橋はおらぬか…」
介錯させるべく近臣の高橋景倍を呼んだ義景。しかし防戦のため外に出ていた高橋に声は届かず、やむなく義景は、その状態で蝋燭を取って立ち上がりました。
―自身蝋燭ヲ取テ、彼方此方ニ火ヲツケ玉ヘトモ、緋ノ血瀧ノ如クニ流レ落レハ…(同上)
破れた腹からボタボタと大量の血潮を落としながら、彼は自ら部屋に火をつけて回ったそうです。
ちょっと正視し難いような凄惨さですが、大変な精神力を伴う行為だったことは確かで、少なくともここに後世の人が評論する“文弱大名”の面影はありません。
そして、蝋燭の火が部屋を包む前に精魂尽きはて、絶命の苦しみにあえぐ中、漸く戻ってきた高橋に首を打たれました。
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越前大野城と亥山城からさほど遠くない大野市街の一角に、「義景公園」という公園があります。
義景が自害した賢松寺はその後廃寺となり、場所も明確ではありませんが、この公園付近にある曹源寺が有力地とされています。
公園内にある朝倉義景の墓。
五輪塔形式のこの墓塔は、江戸期に入って旧臣の子孫によって曹源寺に建立され、後にこの地に移されました。
同じ敷地内には義景に最後まで付き従った二人の近臣、高橋景倍と鳥居景近の墓もありました。
高橋は主君を介錯したあとその場で自害。鳥居は景鏡に一矢報いようと斬り込んで討死したそうです。
後ろに見えているのは義景の母・広徳院と妻妾の祥順院(小少将?)、嫡子・愛王丸の合祀墓。
義景の肉親である3人は、まず景鏡によって亥山城に拘留されました。が、景鏡が織田方に降参した際に引き渡され、帰の庄(現在の今庄あたり)で3人とも殺害されています。
―七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空…(同上)
四十年の人生は七転八倒の苦しみだったが、誰のせいでもない。この世はもともと「空」なのだ…
まるで禅僧が詠んだようなこの漢詩が、朝倉義景の辞世と云います。
が、どうでしょうか。
いまわの際まで裏切者の従兄弟を呪い、怒りに我を忘れて無残な自害を遂げた人物の辞世としてはちょっと不自然に感じます。
おそらくこの詩は誰かの創作なのでしょう。
ただ私の妄想交じりで言えば、「七転八倒」は凄まじい有り様だった彼の自害のシーンにこそ当てはまる言葉と思えます。
この辞世は、彼の最期を知る人が、その様子を転化して怨霊を鎮めようとしたレクイエムではないか。とすれば、それを勧進したのは、義景の祟りを最も怖れたその人ではなかったかと、何だかそんな気がしないでもありません。
翌天正2年(1574)4月。
越前を席巻した一向一揆に巻き込まれ、朝倉景鏡は平泉寺にて討死。
絶望のなか、最後はわずか3騎で敵中に駆け入ったそうで、残された2人の息子も処刑されました。
因果が巡ったのかどうか、私には分かりません。
「小谷城」へつづく
訪れたところ
【亥山城跡】福井県大野市日吉町16-5(日吉神社)







