疋壇城 浅井・朝倉の興亡⑥ | 落人の夜話

落人の夜話

城跡紀行家(自称)落人の
お城めぐりとご当地めぐり

天正元年(1573)8月6日。

越前の戦国大名・朝倉義景は兵を発し、織田信長の大軍に攻められ危機に陥った盟友・浅井長政を救援するため、北近江の柳ヶ瀬に着陣。10日には田上山まで陣を進め、長政が籠る小谷城への接近を図りました。

 

が、これを見た信長は、朝倉勢と小谷城の間に位置する山田山に陣取ってこれを分断。

両軍睨み合いとなっていた8月12日。

 

風雨の強い夜だったそうです。

焼尾砦の守将・浅見対馬守が内応したとの報を受けた信長は、これを足がかりとして小谷城最高部にある大嶽砦に猛攻をかけ、夜戦の末にこれを制圧。

守備していたのは先に朝倉家から派遣されていた援軍500人ほどでしたが、信長はあえて彼らを逃がし、その勢いで浅井方の重要な支城・丁野城までも落としました。

 

一方、大嶽砦と丁野城の陥落を知った朝倉勢は浮き足立ちました。

 
―騒立テ可戦樣モナカリケル程ニ。各談合アリ。此山ト申スニ柵ノ一重モ不結。何ヲタヨリニ抱へ候ヘキヤ。唯今夜ノ中ニ御却リ候へ…(『越州軍記』より)
 
この山(田上山)には柵の用意もなく、防衛は難しい。今夜のうちに急ぎ撤退を…

小谷城はもう持たない。となれば、強大な織田勢を一手に受けることになり、早く退却しなければ我が身さえ危うい。

 

8月13日。騒ぎ立つ越前兵たちを収拾すべく、朝倉義景はいったん柳ヶ瀬まで兵を引いて軍議を開いたそうです。

義景としては、長年の友邦を見捨てる判断に躊躇があったかも知れません。

 

が、これは結果的に重大なミスとなりました。

形勢不利と見て急ぎ逃げようとする者、声を枯らしてそれを止めようとする者。軍議は諸将の召集さえ手間どり、峠越えの国境をひかえた柳ヶ瀬一帯は、渋滞する朝倉勢で大混乱の様相を呈したようです。

 

これを見た一門衆、朝倉掃部助(景氏)が進言しました。

 

―夜モ定テフケ候ラン。先疋壇マデ御退候へ…(同上)

 

夜もずいぶん更けてしまいました。まず疋壇城まで退かれますよう…

ここに至ってようやく義景も決断。進言に従い、疋壇を目指して撤退を開始しました。

 

が、このとき信長自ら先頭に立った織田勢の追撃は、すぐそこまで迫っていました。

 

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古代、畿内に設置された関所の中でも、特に重要とされた三つの関を「三関」と称したそうです。

すなわち不破関(岐阜県)、鈴鹿関(三重県)、愛発関(福井県)の三つ。

このうち愛発関の所在地についてはまだ確定されていませんが、諸説ある中の有力なひとつに「疋田」があります。

 

 

 

越前と近江の国境に位置し、現在も国道8号線と国道16号線が交差する疋田は、古来、北国と琵琶湖の水運をつなぐ要衝でした。

この地に疋壇城を築いたのは朝倉家の配下、疋壇久保。時期は文明年間(1469~1487)とされています。

 

大型車両が頻繁に行き来する疋田交差点(写真上左)からは、今は森のように見える小高い城跡(写真上右)が望め、交通の要地をおさえる城だったことが偲べます。

 

 

疋田の町並みより。

 

疋田の町には「疋田舟川」と呼ばれる疎水が流れています。

これは敦賀の湊と琵琶湖をつないだ運河の跡で、完成は文化12年(1815)。現在はずいぶん川幅が狭められましたが、当時の護岸を生かすなどして景観保存が工夫されています。

 

 

 

そこから背後の丘を登ってほどなく、城跡がみえてきました。

 

写真左上は麓から見上げた曲輪跡。3段になっている様子と、石垣も所々見えます。

写真右上は主郭下の空堀跡。すぐ横をJRが通っています。

 

 

「天守台」と云われる櫓台に到着。

ここから主郭に登ってゆきます。

 

手前はゲートボール場になってて、そちらは二の丸跡と思われています。

疋壇城は一段高い主郭を中心に、南北へ曲輪を伸ばした縄張りだったようです。

 

 

 

主郭内は個人の畑になっている場所が多く、獣避けの柵や電線が張られていますから見学の際は要注意。

 

この城は意外に遺構が多く、ご覧のように結構立派な石垣もあちこち残っています。

ただ朝倉家の時代のものとしては多少違和感もあり、このあたりは後の賤ヶ岳合戦(天正11年:1583)を前にした柴田勝家の改修とする説もあります。

 

 

先の櫓台上に建つ城跡碑。

今は「疋田」、かつては「疋壇」と表記したんですね。

 

 

元亀争乱(1570~1573)の折、越前の南の国境を守ったこの城は2度落城しています。

どちらも寄手は織田信長で、1度目は元亀元年(1570)4月の朝倉攻め

敦賀の天筒山城金ヶ崎城とともに、この城もいったん落城したようです。が、この時は浅井長政が信長に離反して朝倉家を助けたため、すぐに奪還しています。

 

そして2度目は天正元年(1573)、再度の朝倉攻め。現地案内板によると、時の城主は疋壇六郎三郎だったとあります。

が、この時は奪還できませんでした。

朝倉家が滅亡したからです。

 

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疋田交差点からほど近い道路脇に、目立たない史跡があります。

国道整備の際、周辺から出土した墓碑群をここに集めて祀ったものだそうで、地図では「戦国武将の墓」と表記されていました。

 

傍らにはその由来を記した古い案内板がありました。今は錆びついてほぼ読めませんが、ここに祀られると伝わるのは、刀禰坂の合戦で戦死した朝倉方の将兵です。 

 

 

天正元年8月13日の夜。

柳ヶ瀬から疋壇へ撤退を開始した朝倉勢の様子を、引き続き『越州軍記』から抜粋してみます。

 

―義景立出馬ニ乗玉へハ。右往左往ニサハキ。下人ハ主ヲステ。子ハ親ヲステ。我先々々トソ退ニケル…(『越州軍記』より)

 

義景が馬に乗ると配下の兵たちは右往左往して騒ぎ、雑兵は主を捨て、子は親を捨てる有様で我先に逃げはじめ…

 

敗色濃厚のなか、総大将の退却を察した朝倉勢は統制を失い、敗走がはじまりました。

風雨の夜、峠道をもみ合いながら逃げる軍勢は進むに進めず、刀禰坂のあたりでついに後尾が織田勢に追い付かれました。

刀禰坂の合戦です。

 

―山崎吉家皈セヤ兵モト。馬ノ足ヲ立直々々下知シケルモ。大勢ノ引立タル事ナレハ。一返モ不返。只我先ニト山ノ嶮岨ヲ云ス馳重リケル間…(同上)

 

「返せや兵ども、立て直せ…」

朝倉家の侍大将・山崎吉家が馬を捌きつつ叫ぶ声も、逃げ惑う兵の耳には届きませんでした。

あるいは谷に転落する者、あるいは馬ごと倒れてそのまま討たれる者、甲冑を脱ぎ捨て身一つで逃げ延びようとする者…

 

もはや合戦というより一方的な殺戮だったかも知れません。目を覆うような大敗です。

『信長公記』によれば織田勢が討ち取った首は3千を超えたと云いますから、夜が明けるころ疋壇への道は死屍累々だったでしょう。

 

討死した朝倉家臣は朝倉景氏朝倉景行朝倉道景山崎吉家河合吉統詫美越後守ら多数。疋壇六郎二郎という名も見えるのは、現地案内板にあった「疋壇六郎三郎」と同一人物でしょうか。

このとき朝倉方として参戦していた美濃の元大名・斎藤龍興の名もあります。

 

8月15日。

軍事力を一挙に失った朝倉義景が疋壇に留まる余裕はなく、近臣に守られて本拠・一乗谷を目指し逃亡。

しかし織田勢の急追は厳しく、わずか3日後にはその一乗谷にも兵火が及ぶことになります。

 

 

一乗谷」へ続く

 

 

 

クローバー訪れたところ

【疋壇城跡】福井県敦賀市疋田