山中城(2) 渡辺水庵覚書の世界 | 落人の夜話

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槍の勘兵衛”こと渡辺了(さとる)は近江の人。
何度か主家を変えながら戦国の世を生き抜いた彼は、当時中村一氏の家来として山中城攻めに参加し、一番乗りの功名をあげました。

渡辺勘兵衛の人生は池波正太郎の小説『戦国幻想曲』(角川文庫)の題材にもなっていますが、彼自身が残した書物(『渡辺水庵覚書』)の中に山中城攻めの体験を語ったリアルな記録があります。
これは前記事で紹介した西股総生氏の『戦国の軍隊』(学研)でも詳しく取り上げられていて、山中城攻めの実態を知るにあたってたいへん貴重な史料です。

ここから暫くは、勘兵衛の記録から見える光景を辿ってみた、山中城歩きの記憶です。

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現在、山中城跡の駐車場に車を停め、岱崎出丸の脇から城跡に入ろうとすると、右手に箱根旧街道をみることができます。
このあたりを通る東海道の一部は箱根旧街道と呼ばれて国の史跡にも指定されていますが、このようにきれいな石畳となったのは江戸幕府の時代になってから。
それまでは舗装もなく、ローム層がむき出しの滑りやすい坂道だったそうです。

天正18年(1590)。
3月27日に豊臣秀吉の本陣が沼津に到着したのを受け、翌々日の3月29日、ついに山中城へ総攻撃が開始されました。

大手口の先鋒は、豊臣秀次の寄騎で美濃国軽海西6万石の領主・一柳直末
勘兵衛の所属する中村一氏の隊は一柳勢の後に続き、竹束や土俵で仕寄り(攻城用の遮蔽陣地)を築きながらこの道を登ってきたものと思われます。


   
<左:擂鉢曲輪 右:岱崎出丸の畝堀>
 
先陣を承った一柳勢は街道筋を進んで大手口に迫ったものの、城方の猛烈な射撃に立ち往生したようです。焦った直末は果敢にも自ら陣頭指揮に乗り出しましたが、岱崎出丸から狙撃を受けて戦死。
圧倒的戦力差のあったこの戦で大名クラスの戦死者を出していること自体、寄手がいかに無理攻めを行ったかが想像できます。

―城中の鉄砲を一度に残さずつるべ、同ときをどつと上げ申し候…(渡辺水庵覚書)

勘兵衛が城に近づいて味方の陣地に飛び込んだときは、もう激戦の最中でした。
城からの射撃は激しく、勘兵衛が敵の様子を窺おうと陣地の上に顔を出したとたん鉄砲のつるべ射ちに遇い、思わず首をひっこめたのを見た城兵がどっと閧(とき)の声をあげるのが聞こえた、と。

映画『プライベート・ライアン』の冒頭シーンをご存知の方も多いでしょうが、私などこのあたりを読むにつけ、あの戦闘シーンの戦国版を見せられたようなリアリティを感じます。

勘兵衛らが陣地に飛び込んで最初に対決したのは、現在の擂鉢(すりばち)曲輪とみられています。
擂鉢曲輪は写真のように、真ん中が少し凹んだすり鉢状を呈していて、曲輪というより射撃陣地のような印象。
ここを含む岱崎出丸を守っていた間宮康俊の部隊は緒戦で一柳直末を倒し、激しい抵抗を見せていましたが、その実数は100人あまりだったと伝わっています。
出丸の面積と重要度に比してこれはいかにも少なすぎる印象が拭えませんが、もしかすると山中城内では、この時点で何か指揮系統の混乱のような事態が起こっていたのかもしれません。

―城中の面々塀下をかかへ候、働き指てこれなく候…(同上)

城兵の防御が岱崎出丸の先端、擂鉢曲輪に集中していると目ざとく見抜いた勘兵衛は、ここをスルーして脇をすり抜け、出丸の横っ腹に設けられた畝堀を乗り越えて斜面を斜めに駆け上がりました。
しかし城方は「塀下」(おそらく擂鉢曲輪)に兵士を集中させていたので、こちらではあまり抵抗を受けなかったと述べています。

―中村一氏が家来、渡辺勘兵衛、一番乗り!
土塁を越えてついに城内に入った勘兵衛は、戦国武士の習いに従って吠えたことでしょう。
後から寄手の兵が続いてくるのを見た勘兵衛は一目散に本丸を目指し、擂鉢曲輪と反対側の大手口に向かいます。
が、横腹に風穴を開けられた岱崎出丸はこれをきっかけに陥落。擂鉢曲輪に集中していた間宮勢は八方塞がりになって壊滅し、豊臣勢を苦しめた間宮康俊はここで戦死しました。


   
<左:三の丸堀 右:箱井戸>

―五六十も鉄砲に手を負い、死生者これ有り…(同上)

大手口にあたる三の丸の虎口は鉄砲の十字砲火がかかる構造になっていて、ここで50~60人もの死傷者が出ていたというのです。
勘兵衛がみた多数の死傷者は、おそらく突入に失敗した一柳家の兵たち。あたりは一面、血の海だったでしょう。

三の丸の虎口があったあたりは現在、「三の丸堀」が確認できるほかは道路や宅地で遺構が隠滅してしまっています。
ただ、その奥に進むと「田尻の池」や「箱井戸」が確認でき、水の確保に力を注いでいた往時を偲ばせるものがあります。

―三の丸は人数も丈夫にかかへ申すにつき時を移し候処に、搦手に寄手少々入りまわり、両丸に相見え候さまのけむりうすく成り…(同上)

三の丸は守備兵の数が多く、守りの堅さに手を出しかねていた勘兵衛たちですが、しばらくすると「搦手」から攻めかかった味方が突入したらしく、狭間からあがる鉄砲の硝煙がうすくなってきた、とあります。


 
<左:西の丸下の障子堀  右:西櫓下の畝堀>

「搦手」とはどこか。
西股氏は、それが西の丸であった可能性が高いとしています。
確かに勘兵衛たちの攻め口である三の丸を大手口とすると、その反対側にあるのは西の丸。そして、そこを攻めたのは徳川家康率いる精強な三河勢でした。
徳川勢もまた犠牲をかえりみず、張り巡らされた障子堀を乗りこえて西の丸に殺到したことで、三の丸にいた城兵たちも後退したのでしょうか。

ここで、山中城にとって決定的な事態が起こりました。
北条氏勝の脱出です。

岱崎出丸に続いて西の丸が陥落するにおよび、落城は時間の問題とみた松田康長は、二の丸に居た氏勝に脱出を促したそうです。
北条氏勝は、“地黄八幡”で有名な北条綱成の孫にあたる名門の血筋。北条家譜代の老臣は、援軍に来たこの貴公子をここで死なせたくないと考えたのかもしれません。

が、このことは今まさに戦闘中の城兵たちを動揺させたことは間違いなく、氏勝とともにここで脱出を図る城兵も多かったことでしょう。
勘兵衛がみた城兵の後退には、この背景も大きく影響していたように思われます。


 
<二の丸虎口に架かる橋>

一方、城兵の後退を察した勘兵衛は三の丸に突入。さらに二の丸へ退く城兵に「透き間なくひっ付き」、つまり撤退する敵兵の後尾にくっつくようにして橋を渡り、二の丸にまで侵入しました。
この動きは典型的な“付け入り”です。
これこそ鍛え上げられた戦国武士の戦場運動といえましょう。


 
<二の丸(北条丸)>

広い二の丸には「鎧武者」がいたそうですが、勘兵衛はかまわず本丸めざして走ります。
が、はたと立ち止まりました。どちらに行けば本丸かわからなくなったらしいのです。
これもまた、実際に戦場を駆け回った者ならではの回想でしょう。

迷った勘兵衛が近くにあった大きな杉の木に登って見回したところ、大きな建物の前に200人ばかりの城兵が集結し、手に手に槍をかかえているのが見えた。あれぞまさしく本丸だろうと目星をつけた勘兵衛は、今度は迷うことなく駆け出し、塀を乗り越えてついに本丸へ突入。
山中城の攻防は、いよいよ最終局面を迎えました。
 

 
<天守櫓台から本丸を望む>

この時点で逃げもせず本丸にいた200人の城兵は、死を決した旗本部隊だったでしょう。
おそらくは松田康長が直率の兵、または代々北条家にゆかりの深い侍たちだったでしょうか。

勘兵衛に続いて本丸に突入した豊臣勢がこの旗本部隊と槍で叩き合ううち、西の丸側からも味方が殺到してきました。

―大将に候と名乗り、二人首をうたせ申し音いたし…(同上)

ついに二人の大将が討たれたと聞いた勘兵衛。
二人のうち一人は松田康長。もう一人は、明らかではありません。


 
<本丸の堀>

―その段せばく候へば、敵味方上が上へかさなり、北と西の角堀へ過半なだれ…(同上)

狭い本丸の段に最後は圧倒的な数の寄手が群がり寄せたので、残った城兵は格闘しながら押し出されるように塀を突き破り、敵味方とも団子になって背後の堀へ重なり落ちていった…

落城は夕刻に近い頃だったようです。
早朝の戦闘開始からわずか半日。
白兵戦をともなう異常な激戦の末に落城した、山中城の最期の様子です。


   
山中城の三の丸があったあたりには、宗閑寺という寺院が建っています。
ここには攻防戦で討死した両軍の将領がならんで祀られています。

上の写真、左は松田康長、右は一柳直末の墓。
北条方はほかにも間宮康俊、多米長定などの墓石があり、いずれも最後のご奉公を果たしたこの城跡で、今も静かに居並んでいます。

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戦国の世も昔となり、徳川将軍はすでに三代家光の治世となっていた頃。

京都のとある風呂屋では、客のためにいつも竿に洗いざらした湯帷子や下帯がかけてあり、風呂焚きや垢かきを雇い、出入口にはちゃんとした番人も置いて、客が安心して入浴できるようにしてありました。
風呂屋の主人はもう老人でしたが、この人を目当てに訪ねてくる客も多く、また主人もよく客をもてなしたので繁盛していた…
そんな話が『備前老人物語』にみえます。

この風呂屋の主人こそ、渡辺水庵。
天正18年の山中城攻めで一番乗りをはたした、あの渡辺勘兵衛の晩年です。

年老いてからは銭湯の名物オヤジになった“槍の勘兵衛”。
『渡辺水庵覚書』は、そんな風呂屋の板の間で、常連客がかつての戦国武士にねだって語らせた昔語り、だったのかも知れません。



 訪れたところ
【山中城跡】静岡県三島市山中新田