国府台城(2) 「越山」と第二次国府台合戦 | 落人の夜話

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国府台合戦の故地、里見公園。
広い公園内をうろついてみると、ちょっと目立ちにくいながらも史跡が点在しています。


  
こちらは「里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑
なにやら心霊臭がハンパない名称ですが、3基ならんだ石碑はいずれも江戸時代後期の文政12年(1829)に建てられたもの。
左から
里見諸士群亡塚
里見諸将霊墓
里見廣次公廟
と刻まれています。
横並びの石碑でも、身分によって「塚」「墓」「廟」とわざわざ表記を変えているあたりが江戸時代らしくておもしろいところ。
案内板には、

―永禄七年(1564)一月四日、里見義弘は八千の軍勢をもって国府台に陣を構え、北条氏康の率いる二万の兵を迎え撃ち…

とあり、これが第二次国府台合戦のおりに戦死した、里見方の将士を弔う碑であることがわかります。


 
こちらは「夜泣き石」。
里見公園内の史跡はなぜか心霊押しのネーミングセンスが光りまくりですが、一応こんな物語が伝わっています。

国府台で敗れた里見軍は多くの死者を出し、里見家の一族・里見広次も戦死したが、それを聞いた広次の末娘ははるばる安房国からこの場所へやってきた。
凄惨な戦場を目の当たりにした娘は、父を失った悲しみもあって打ちひしがれ、この石にもたれかかって泣きつづけるうち、そのまま息絶えてしまった。それから毎夜この石から悲しい鳴き声が…云々。

しかしこれは無理のある話で、案内板にもその旨の解説が添えられています。
なぜなら里見広次は当時15歳で、この戦が初陣。当然ここまで歩いて来るような年頃の末娘があるわけがありません。
ただ、第二次国府台合戦において里見方は、そんな俗説もうまれるほど伝説的な大敗を喫したということでしょう。

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天文7年(1538)の第一次国府台合戦に勝利し、関東随一の大勢力へ発展を遂げた北条氏綱
一方、敗者の側に居ながら戦力の温存に成功し、房総半島の代表格に成長した里見義尭

因縁の両家。このとき北条家としては一挙に禍根を断ってしまいたかったかも知れません。が、当時の北条家は多方面作戦を強いられており、西部国境で今川氏との紛争(河東一乱)を抱え、北部では上野国(群馬県)に本拠を置く山内上杉氏や武蔵松山城の扇谷上杉氏との緊張関係も続いていました。

さらに天文年間は全国的に災害や飢饉が多発したことで知られています。
それはちょうど天文7年ごろから本格化していて、関東地方でもその様子を示す多くの記録が残っています。例えば甲斐国(山梨県)の僧侶が遺した『妙法寺記』には、

―この年(天文7年)正月17日に大風(台風)がきて、2月3月にもやってきた。麦の収穫がまったく無くなり、この春も餓死者が限りない…

といった記事が見えます。
大雨や台風は数年にわたって列島に頻発したようで、関東でもその後に発生した疫病や蝗害など災害はとどまることがなく、幕府が弱体だったこともあって国家的な救済策はほとんど実施されていません。
人々がおそらく経験したことのないような大飢饉の足音におびえる中、ついに天文10(1541)年には、

―百年の内にも御座なく候(『勝山記』)
―七百年来の飢饉(『厳助往年記』)

というすさまじい飢餓に陥りました。
天文の飢饉です。

そんな社会不安の渦中で北条氏綱は病に倒れ、帰らぬ人となりました。
天文7年からしばらく災厄以外の何物でもない年が続いていた北条家としては、当面の敵だった小弓公方を撃破してさらに房総半島の奥まで遠征軍を送る余裕などなく、いったん荒廃した領内を立て直す期間が必要だったと思われます。
里見義尭はこのスキに房総半島での勢力基盤を固めたようです。


 
北条氏綱の跡を継いだのは北条家3代目の氏康
しばらく多難な領国経営が続いた彼ですが、天文15年(1546)4月の河越夜戦山内上杉氏扇谷上杉氏足利晴氏3者連合軍を破って大きな危機を乗り越えると、いよいよ房総半島に目を向け、およそ10年にわたる一進一退の攻防が展開されます。

そして永禄3年(1560)5月、ついに里見の本拠・久留里城を囲んだ氏康。
この大ピンチに里見義尭がとった起死回生の策が、あの“軍神”を関東に呼び込むことでした。

里見義尭から救援依頼の手紙を受け取ったのは、越後の長尾景虎
のちの“軍神”上杉謙信です。

同年9月、長尾景虎率いる約8千の越後勢が三国峠を越えて関東平野に姿を見せると、北関東の諸侯は草がなびくように続々と降参。10万と号するまでにふくらんだ大軍勢は小田原に進軍しました。
この後10年近く繰り返されることになる越後勢の関東侵攻、「越山(えつざん)」のはじまりです。
このとき鎌倉の鶴岡八幡宮において、かつての関東管領・上杉憲政から姓と官位を譲り受けた景虎は、上杉政虎(のち輝虎謙信)と改名しました。

久留里城を囲んでいた北条氏康にとってこれは晴天の霹靂。
北条勢は急いで小田原に撤収せざるを得なくなり、窮地を救われた里見家はこの後も上杉謙信と連携してゆくことになります。

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永禄3年9月の「越山」で小田原城まで攻め込んだ上杉謙信ですが、天下の堅城に籠った北条氏康を攻めきれず、年が明けると越後へ撤退。
待ってましたと今度は氏康が反転攻勢に出て失地を取り返す…。
上杉謙信vs北条氏康の戦争は結局この繰り返しで、第二次国府台合戦の背景にもこの「越山」があります。

永禄6年(1563)閏12月。
4度目の「越山」で上野国の厩橋城に入った上杉謙信は、房総の里見義尭に出陣を要請。
当時、筋金入りの反北条方だった岩付城太田資正と合流するよう指示すると、自らは和田(高崎)攻めを開始しました。
北条方を挟み撃ちにし、一気に勝負をつけようとしたのです。

謙信は前回の「越山」(永禄5年12月~翌年4月)で苦い思いをしていました。
当時は上杉方だった武蔵松山城北条・武田連合軍に囲まれたため、これを救援すべく出動した3度目の「越山」。謙信は大雪をかき分けて出陣し、この時も里見家に出陣をうながして共同で後詰にあたろうとしました。
しかし里見勢は国府台まで進出したものの北条勢に足止めされ、謙信自身も松山城のすぐ近く、武蔵の石戸(今の埼玉県北本市)まで進出したところで松山城陥落の報に接し、骨折り損のまま撤収したことがあるのです。

謙信としては「今度こそ、あの氏康めを…」と、そんな思いだったかもしれません。

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国府台の台地から江戸川のほとりに降りてみました。

永禄7年(1564)1月。
―国府台に里見の軍勢
との報告を聞いた北条氏康は、迷うことなく全力で里見勢に当たることを決定。
催した軍勢は2万。自身のほか嫡男の氏政や次男の氏照だけでなく、“河越の英雄”北条綱成や家老の松田憲秀遠山綱景富永直勝などが参戦していて、おそらく総力を結集した軍勢だったと思われます。

一方の里見勢は、里見義尭の嫡男・義弘を大将に約6千。それに岩付から太田家の援軍2千を加え、総勢8千
いつものように国府台に進出してまず地の利を得たところまでは良かったものの、北から来るはずの上杉勢と十分な連携を図る前に北条の主力と当たらされた格好になります。

北条vs里見・太田連合軍、第二次国府台合戦です。


 
今はほとんど観光用になっているようですが、国府台の前に流れる江戸川には渡し舟が通っています。
ちあきなおみ(or細川たかし)の演歌で有名な、矢切の渡しです。

実はこの「矢切の渡し」。戦国時代は「がらめきの瀬」と呼ばれていたようですが、第二次国府台合戦の折、このあたりで里見方の矢が切れて敗れたことから地名も「矢切」と呼ばれるようになった、とする説があります。

北条方の先鋒は江戸城の城代だった遠山綱景と富永直勝。
2人の将は対岸の柴又あたりに到着するや、遅れていた本隊の到着を待たずに「がらめきの瀬」を押し渡り、合戦の火ぶたが落とされました。


  
里見公園から北へ歩いてゆくと、「大坂」という場所があります。

「がらめきの瀬」を渡った遠山・富永の両将はこのあたりに取り付き、台上の里見勢はいったん退却するかに見せかけて、勢いづいた両将が攻め上ろうとするところを逆落としにしたのだそうです。
これを食らった両将が討死したのがこの「大坂」あたりと伝えられ、台地の下に建つトーテムポールのような柱には「史跡永禄古戦場跡・打死一千人…」の文字が刻まれています。

緒戦を勝利で飾った里見・太田勢は、正月早々の合戦だったこともあってか、兵たちに酒をふるまって祝ったのだそうです。本隊が遅れていた北条勢の総数を測り損なったのかも知れません。
が、これは致命的なフライング祝勝会となりました。

その夜、対岸に到着した北条家の本隊はひそかに渡河して国府台を包囲すると、翌未明に総攻撃を開始。酒宴の宵越しを襲われた里見・太田勢はこれに対応できず、里見義弘は安房に逃げ帰ることができたものの、里見家の柱石と謳われた正木信茂など多くの勇将を失う散々な敗け戦となりました。
里見公園の史跡にあった里見広次も、この混乱のなかで討死したものと思われます。

この戦の結果、里見家は家中の寝返りが相次いで存亡の危機に陥ることになります。
だけでなく、作戦のタイミングを外された上杉謙信は貴重な同盟戦力を失い、4度目の「越山」も芳しくない結果のまま越後に去ることになります。

上杉謙信という人は“軍神”と言われるだけあって、とにかくカリスマ性が高くて戦に強い。
謙信の「越山」は北条氏康に強いプレッシャーをかけ続けたでしょうが、氏康はこの“化け物”との直接対決を避けながら、ひたすら同盟戦力を潰していくスタミナ戦で対抗しました。しかしこの方法はボディブローのように効いてきて、関東平野における上杉vs北条の戦争は次第に北条氏康の優位に傾くことになります。

第二次国府台合戦は、直接的には北条勢と里見勢の戦いでした。
が、戦国期の地図を大きくひろげて見たとき、上杉謙信と北条氏康が関東平野を盤面として戦った名人戦の大きな一手だったようにも思えたりして。
国府台から対岸を望みながら、私としてはそれだけで感慨深かったりするのです。



訪れたところ
【国府台城跡】 千葉県市川市国府台3-9里見公園
【大坂】千葉県松戸市下矢切