「愛国心」への第一歩 | “迷い”と“願い”の街角で

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「愛国心」は、昨今、論じられることが多いテーマですが、「愛国心」について語られる多くの場面を見ると、どうしても違和感を抱いてしまいます。


そこでは、誰かを攻撃したり、否定したり、蔑んだりする趣旨が多分に含まれた語られ方がされており、本来それは「愛」とは矛盾するもののように思えるからです。そこで吐き捨てられる悪口罵詈は、愛する気持ちの半面などとは到底思えません。


そもそも、「愛国心」を持つとはどういうことなのでしょうか。一時期、「愛国心」を涵養するよりも、国民が自然と愛するような国にしていくのが重要だという議論もなされました。確かに、その通りと思える面もありますが、何かが足りないような気がしていました。


それでは、「愛」の対象である「国」とは何でしょうか。


「国」の定義については、様々な観点から論じることが可能かと思います。司法・立法・行政といった統治機構の意味もありますが、「愛国心」を語る上では、むしろ「郷土」といったような意味となるでしょう。


自分が生まれ育った土地、それだけでなく、そこに生きる人もまた、「郷土」としての「国」そのものなのでしょう。だとすれば、「愛国心」は、そこに生きる人々を愛することに他なりません。国を愛する国民は国の一部であり、国民に愛される国は国民から成り立っている、言い換えれば、国民が国を愛することは、国が国民を愛することと同義なのかもしれません。


しかし、一般に「愛国心」の涵養などについて語られる場合、その「国」から「国民」が置いてきぼりにされている気がします。


教育において、国旗掲揚・国歌斉唱を行わない学校を「愛国心」の観点から批判することはあっても、国の宝である子供たちをいじめや体罰から守ることが「愛国心」の観点で語られることはあまりありません。


生活保護の不正受給者を「愛国心」の観点から批判することはあっても、国を支えている労働者をパワハラ被害や過労死から守ることが「愛国心」の観点で語られることはあまりありません。


天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以って人を愛するなり。

西郷隆盛の言葉ですが、ここで言われる「天」と「我」こそ、「国」と「国民」の望ましい在り方のように思えます。


貶め合い、軽んじ合い、不幸にし合い、自分が受け入れられていないと感じるような状況で、誰が心から愛する気持ちを持てるでしょうか。人が郷土を、国を愛するのは、そこで受け入れられていると感じるからではないのでしょうか。


誰かの、特に同じ国に生きる人間の不幸を望む先にあるものなど、「愛国心」であるはずがありません。国の一部、いえ、国そのものである国民として、国民の幸せを望むこと以外に、「愛国心」への第一歩はないように思うのです。