長岡の街歩き、2人の偉人を訪ねて。 令和5年5月27日(土) | お出かけ&ライブのブログ

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ここ最近は遠征は名古屋が大半、時々大阪という状態だったので今回の新潟県柏崎の遠征はなかなか新鮮である。

時間的な余裕が無いから今回は新幹線を利用。
北方面に向かう新幹線は本当に久しぶり。

今日は上越新幹線のとき305号で長岡に向かい、信越本線で柏崎に向かう。
新幹線は割と混んでいたけど1時間40分位であっという間に長岡着。名古屋に行く位の時間。

ここで乗り換えだけどせっかくなので長岡の街を散策。降りた事はあれど街を歩くのは初めて。

長岡といえば花火で有名、だから駅前には花火の打ち上げ筒のモニュメント。

そしてその先に長岡城本丸跡の碑。
ちょうど長岡駅のある辺りが長岡城本丸があった場所。全く面影は無いが。

駅のすぐ近くアオーレ長岡というショッピングモールのようにオシャレな長岡市役所本庁舎前の広場に長岡城址の碑が建つ。
横には城内稲荷という城にあった稲荷がある。
この辺りが二の丸跡。
官公庁が城跡にある例は多いが、ここもまた然り。


しかし廃藩置県まで存在した藩の居城がここまで跡形も無いのは日本全国でほとんど無いのでは。開発が進んで消滅した城は多いけど、石垣とか堀とか区画とか、、、何かしら少しは残っているのだけど長岡城は全く無い。
江戸時代初期までに廃城になった城でそういう場所はあるけど明治初期まであった城としては珍しい。

拾い画だけど長岡城の図と現在の様子。

上記地図の大手通りを少し歩くと国漢学校の跡、米百俵の碑
米百俵の精神とは。
明治初期に困窮した長岡藩に見かねて支藩から贈られた百俵の米をその場で消費せずに将来の人材を育成するために学校を作る資金にしたという話。現在の辛抱が将来の利益に繋がるという意味として引用される逸話である。

その碑のところで曲がり、しばらく進むと長岡の偉人の1人、山本五十六の生家跡。
小公園となっている。

生家は空襲で焼失したので復元されたもの。

山本五十六海軍大将元帥の胸像。
山本五十六は海軍の連合艦隊司令長官、昭和18年に一式陸攻で移動中にブーゲンビル島(現パプアニューギニア)上空で米軍機に撃墜されて戦死、、、まあ詳しく書くとキリが無いので省略しますが。

生家跡から少し先にある山本五十六記念館へ。
展示室には山本五十六に関する資料、そして一番メインとも言えるのが戦死した際に乗機していた一式陸攻の翼。パプアニューギニア政府から返還された実物。
館内の撮影は禁止なので記念館HPより。

山本五十六記念館から割と近くに、もう一人の長岡の偉人の河井継之助の住居跡。
河井継之助記念館が建っている。

河井継之助は幕末の長岡藩の指導者。
小藩にも関わらず長岡藩軍を近代的な軍に改革、戊辰戦争に於いて中立を保つも時代に翻弄されて新政府軍に敵対してしまう。
こちらも長くなるから下記参照してください。


記念館で一番の目玉はやっぱりコレ。(これは撮影可)
当時の日本に3門しか無かったガトリング砲、そのうち2門を小藩である長岡藩が所有していたのだが、そのレプリカ。
いわば機関銃の先祖みたいな連発銃だが当時のその値段は現在の価値で1門約3億円。

なお、河井継之助の読み方をずっと“つぐのすけ”と読んでいたが正しくは“つぎのすけ”というのを今日初めて知った。

次に向かうのは信越本線の線路を越えて反対側、栄涼寺へ。

境内墓地にある河井継之助の墓。

少し進み、再び線路を渡り長興寺へ。
少し迷った。
こちらの墓地は山本家の墓、山本五十六の墓。

だいぶ長岡駅から遠くに来てしまってるが、更に遠くへ。

金峯神社へ。
なかなか奥行きがある大きな神社。
拝殿前の棚には風鈴が靡く。

境内すぐ横には長岡の原点とも言える蔵王堂城の跡が残る。

残された土塁の上に建つ蔵王堂城跡の碑。


安禅寺という寺院になっている。
土塁や堀が残る。
長岡城完成により江戸時代初期に廃城になっているのだが、長岡城よりむしろこちらの方が城の痕跡が残っているのは皮肉だろうか。


さて、だいぶ長岡駅から遠くに来てしまい、予定の電車にギリギリの状態となってしまったので帰り道は少し急ぎ気味で歩く。

こういう時は本当に遠くに感じるが、なんとか予定の電車には間に合ったので、これより柏崎に向かいます。