江戸期の下緒について | Yoshimasa Iiyamaのブログ

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    江戸時代の下緒につい 
                                      <「刀剣美術」第695号掲載> 飯山嘉昌


〈図3〉刀架に掛けた大小拵

 刀、脇差、短刀の拵に必ず付けられているものに下緒があります。これは刀装には欠かせないのですが、現在ではあまり重要視されていないのが現状です。
 刀装が大好きな身としては、帯締めを下緒として使用していたりすると怒りを通り越して情けなくて悲しくなってしまいます。また、最近では「脇差用下緒」などという中途半端な長さのものが売られています。「刀用下緒」に於いても、襷に使えるようにと七尺のものが売られています。下緒の長さは、古来、刀用が五尺、脇差・短刀用が刀用の半分、二尺五寸と定まっているものなのです。合理的な長さの決定です。
そこで、嘆かわしい現状をなんとかしたいと、下緒の意義と歴史、使用法、種類などについて江戸期のものを考察したいとおもいました。
 まずは江戸期の資料をご覧ください。


1-江戸時代の資料

資料―1

 刀下緒 長さ 五尺
 小下緒 長さ 二尺五寸

<文化十一年刊・『刀と拵備考』下緒の定尺>

資料―2

刀脇差下緒之事
 今の刀に下緒付ける事は、古の太刀の帯取りの形が遣りたる也。『室町家記』に「刀の下緒鎌倉様然る可きなり、七尺五寸にて端に輪奈を用ゆ、今は絶えてなし」とあり可惜の甚だしき也。今の脇差に六七寸の下緒を着く事は、何時の頃よりということを知らず。刀の下緒は、古の打刀鞘巻刀等の下緒を今の刀に付けしならん。古の刀の下緒は鞘の鐺へ絡み巻き留めたる也。其れ故に鞘巻刀と云うるなり。凡そ、中古より脇差の下緒は六七寸にて端を結びきり、刀の下緒は刀の長さと等しくして栗形より三四寸下にて一束に結び末は長くして置くなり。泰平の世には下緒の用更になし、戦場ばかりの用なり。戦場にては刀を落とし差しにして脇差を腹へ引き付け差し、その鐺を刀の下緒の結び目へ通し、脇差の下緒は栗形の上にて一重鞘へ巻き、余りを帯の上より下へ通し、扨(さて)、刀の下緒結び目より末の一筋を前へ引き回し脇差の下緒の結び目へ引きかふし、又、一筋の刀の下緒の末は背へ廻し右手のかたにて前のかたの一筋と一緒に結びとむるなり。


 
図のごとく下緒を留めるときは、如何様に働きても刀脇差の鞘を落とす事なく、鞘の前へ廻る事なし。中古、戦国に今の刀脇差の下緒の用はこれなり。今は流儀なりとて、刀に腰当てと云う物を造りて太刀のごとく佩する流儀とあり、又、下緒を片結びになし置き、甲冑時は栗形際へ引締め栗形五六寸下に筒金等を仕付け置きそれヘー筋を絡み帯取りになして戦場へは佩べきと教える流儀もあり。何れも畳の上の工夫なるべし。戦場へ下げ佩て便利よからん、ならば中古今の形とは替わりまじ。少年より差し馴れたる刀を仕付けとせざる帯取りの真似事にて鞘のかたまりあしかるべし。真の帯取りにてさへ城乗その外働きにあしき故、今の刀に中古変じたるなり。又、その外にも刀の下緒長く仕置て急の時には取り繩又は馬の腹帯にもなる等の事罵がる者あリヽこれは疲れたる時に刀を杖にも突く用ありと云うに同じ論なり。下緒の根元の利方にはあらぬと心得べし。                <『本邦刀剣考』安永八年・榊原長俊著>

<現代語訳>

刀(拵)に下緒付ける事は、古の太刀(拵)の帯取りの形式からきています。『室町家記』に、「刀の下緒は鎌倉武士の決まりごとでは、(長さ)七尺五寸で端を結んで輪にして用いたが、今(室町時代)は絶えて無くなってしまった。」とあり、たいへん惜しむべきことだ。今(江戸時代)の脇差に六、七寸の下緒を着けることが何時から行われるようになったのかはわからない。刀の下緒は、打刀、鞘巻刀等に用いた下緒を今の刀(拵)にも使ったものだ。古の刀の下緒は、鞘の鐺へ絡め巻き留めた。それ故に鞘巻刀と云った。およそ、鎌倉・室町時代より脇差の下緒は六七寸の長さで端を結び、刀の下緒は(二つ折りでお)刀の長さと等しく栗形から三四寸下を一束に結び下方は長いままにしておく。泰平の時代には下緒の役目は特に無く、戦場でだけの役目だった。戦場では刀は落とし差しにして脇差を腹へ引き付けて差し、その鞘を刀の下緒の結び目に通して、脇差の下緒は栗形の上で一重鞘に巻き、余りを帯の上から下へ通し、(図参照)さて(これからが肝心)、刀の下緒の結び目から下の一本を前へ引き回して脇差の下緒の結び目(の間)へ引き被せ、そして、もう一本の刀下緒は背中へ回して右手の方で前の一本と結んで留める。(図参照)

【下緒留様之圖】

図の様に下緒を留める時は、どんなふうに(戦場で)働いても刀・脇差の鞘を落とすことはなく、鞘が前に廻ってしまうこともない。中世、戦国時代に下緒の役目はこれだった。今は(軍学・武芸の)流派のかたちと言って、腰当というものを作って、刀を太刀のように佩く流儀がある。また、下緒を片結びにしておき、甲冑(着用)時には栗形際へ引締めて栗形の五六寸下に筒金等を仕付けておき、それヘ(下緒の)一本を絡め帯取りにして戦場では佩くべきと教える流儀もある。何れも畳の上の工夫にすぎない。戦場では(刀を太刀のように)佩いたほうが便利で良いというなら、鎌倉室町時代と今の形とは変わらないはず。少年(の頃)より差し馴れた刀を礼儀作法としないで帯取りの真似事では鞘の扱いが大変悪い。誠の帯取りでさえ城乗(石垣を登ることか?)その外行動に不便だから、今の刀(様式)に室町時代に変化したのだ。又、その外にも刀の下緒を長くしておいて急の時には取り繩又は馬の腹帯にもなる等の事を臆面もなく公言する者がいるが、これは疲れた時に刀を杖代わりに突くと便利だと云うのと同じ論法だ。下緒の根本的利用法ではないと心得なさい。
<『本邦刀剣考』安永八年・榊原長俊著>



資料―3

下緒
 (以下は)俗説にて取るに足らず。攻城塀乗等の時、刀の下緒の片端を栗形へ結び付け片端を帯へ結び付け、刀を塀へ立て掛け鐔を足掛かりにし塀上へ取り乗り、下緒を引きて刀の来る如くする事あり、栗形を丈夫にするはこれ等の為なり。又、旅宿等にて、大小の下緒を結び左右に置きその上へ布団を敷き寝ることあり。又、鉄砲の台などの用あり。
   <『剣甲新論』慶応紀元乙丑晩秋新刻・水藩 鈴木黄軒>

 以上、江戸時代の書籍から下緒についての記述を抜粋し、意義・歴史の概要といたします。次に実際の用い方を述べます。


2-長さ

 
大小拵(重刀等図譜)


短刀拵(重刀等図譜)
下緒の長さは、大小拵の場合「大」は五尺のものを栗形より三、四寸下にて一束に結び長く下ろし、「小」は二尺五寸のものの端を結びきりにして用いました。
つまり刀の下緒はニツ折りにして刃長と同じぐらいになります。脇差の場合は二ツ折りにし先を結びます。小脇差・短刀の場合は先を茗荷結びにしますと七、八寸ぐらいの長さになります。それを、鞘の栗形と鯉口の間に一重巻いて下します。
〈〈図3〉刀架の図参照〉


小さ刀拵(重要刀装) 
大紋などの礼装時、長袴を着けたときに用いる「小さ刀」拵の下緒は、大刀と同じ長さのものを用いました。


3-種類 >



繁(重)打
 天正拵・肥後拵にも用いる下緒で、厚みがあって柔らかく、品のよいものです。




片畝打
肥後拵には欠かせない下緒で、戦国期から用いられています。




竜甲打
 尾張拵には必ず用いられている下緒です。その名称からか武芸者に好まれました。





平打・貝(甲斐)の口組
礼装用、通常用と最も広く用いられる下緒です。太刀の紐としても用いられます。





高麗打
 家紋や「武運長久」「壽」など、様々な文字・文様を自由に組み上げることが出来る高級な下緒です。






笹波組
「明智拵」の柄糸になっている組型で、現在は残っていませんが、下緒もたぶん同じでしょう。

 





亀甲打
平打ですが、模様によってそう呼ばれます。裏は矢筈模様になります。


○他には燻べ革・正平革・印伝革や染革を用いた革下緒がありますが、江戸時代には殆ど使われませんでした。柄巻には少なからず用いられた革ですが、下緒に用いたのは一部の好事家のみだったようです。

4-結び方

始めに述べましたように刀(大刀)拵・小さ刀拵の時は、栗形から三、四寸のところでひと結びにして長く下ろし、帯刀時には鞘に掛けます。〈図2
脇差・短刀の下緒は、端を一重結びあるいは冥加結びにします。
 これが正式の下緒の結び方で、刀架(刀掛け)に掛けておく時にも品格のある姿になります。〈図3
 平服(羽織)着用時などには略式として蝶結び、仮結び、左右分れ結び(浪人結び)等があります。ところがこれらの結びはそのまま長い間刀掛けに掛けておきますと、焼けて変色し、解いたときに鞘・下緒がどちらも斑になってしまっていることがあるので注意しなければなりません。



図1〉目付・新見長門守(国立公文書館蔵「視聴草」寛政風憲肖像より抜粋)



図2〉「徳川盛世録」産土神参詣の図より


5-色

 江戸時代の武士階級にはいろいろと厳格なきまりがあったようで、好みの色の下緒を身につけるということも儘ならなかったようです。
奥州会津藩を例にとりますと、「紐の制度」というのがあり、上士、中上の羽織紐の色まで決められ、一見して身分がわかるようになっていました。
 紫色…………別格の色。家老(千石高)、若年寄八百石高)。
 御納戸色……家老、若年寄、三奉行(三百石高)、城代(五百石高)、大目付(三百石高)、
軍事奉行(三百石高)、学校奉行(三百石高)など。<高士>
 黒色………一般の武士(上士)。<一の寄合以上>
 紺色………猪苗代城在勤の猪苗代十騎。
 花色(縹色)…厩別当、勘定頭、納戸、御側医師、駒奉行、武芸指南役。<二ノ寄合>
 茶色……………(中士)<三ノ寄合>
 萌黄色…………(中士)<年割>
 浅黄色…………(中士)<月割>


 このように、身分がはっきり服装でわかるのが封建制度の特徴です。現代、相撲の世界では、十両・幕内と幕下以下では力士の服装が違うこと、行司は位によって衣装が異なることや柔道に白帯、黒帯があることなどはそのなごりといってよいでしょう。
ということは、下緒の色も当然例外ではなかったと思われるのです。下緒の色に関する詳しい史料は未だ確認出来ておりませんが、緋色の下緒を付けられるのは武士として最も高い身分の将軍・・尾張徳川・紀伊徳川のみでした。
 色の規制などまったく関係なくなった現在は、かえって拵につける下緒の色に悩んでいらっしゃる方が多いようです。
  柄糸と同色を選ぶこと、これが昔からの基本です。


◇追記


 下緒を栗形に通すのは馴れないと面倒な作業です。通常は紙を一重半くらい巻いて通せますが、最近の繁打等の厚手のものはなかなか通せません。そこで手っ取り早い方法としてセロテープを巻いて通したりしますが、粘着物が下緒にくっついてしまって興醒めなものです。
 では昔はどうしていたかといいますと、竹の皮を用いたそうです。竹皮の内側のツルツルした面を表にし、外側のザラザラした面を下緒に当る側にして巻いて栗形の孔に通しました。これは竹の皮の特徴を存分に利用した良い方法で、実際やってみると力もいらずに滑らかに通り、先人の知恵に感心させられます。栗形についているシトドメは、二つとも外して、先ずひとつを通し、次に栗形を通し、最後に残りのシトドメを通すとよりスムースに下緒を付けられます。
 他の方法では、専用の和紙(松倉紙)があったそうですが、今となっては手に入れるのが困難でしょう。   また、レントゲンのフィルムを下緒巾に切って光沢面を表にし、裏のマット面に挟んで使うという話もお聞きました。 
                  (完)


「刀剣美術」12月号では下緒の種類の図版が逆向きになっておりますので、ご注意ください。