沖縄史 上杉謙信→上杉鷹山→上杉? | 逍遥のススメ人アキラのブログ

沖縄史 上杉謙信→上杉鷹山→上杉?

前々から書こうと思っていた記事です。

 

1879(明治12)年 4月4日、政府は琉球藩の廃止と沖縄県設置を全国に布告し、翌日鍋島直彬を沖縄県令に任命しました。

このときから、琉球史は近代史として沖縄史と言い表すことができます。

 

J・F・ケネディが尊敬した政治家が上杉鷹山(ようざん)。
ケネディの口から上杉鷹山の名が告げられたとき、日本でこの名は一般に知られていなかった。
したがって、こ の名はケネディによって広められたといっても過言ではないでしょう。

 

そして、この上杉鷹山の血を引く旧米沢藩出身の上杉茂憲(もちのり)が沖縄県の第2代県令に任命され、鷹山と同様に行政改革を試みたのは驚きであり、運命的なものを感じざるを得ない。

 

※県令は今の県知事のこと。

 

米沢藩・上杉家は、上杉謙信の血筋をひく名家である。
米沢藩は、関ヶ原の戦い後に30万石に減封され、18世紀の半ばには15万石にまで減らされるという不運にみまわれた。この窮地を救ったのが、名君とうたわれた上杉治憲(鷹山)であった。この上杉治憲から数えて4代目が、米沢藩最後の藩主・上杉茂憲(もちのり)(1844~1919)であった。廃藩置県後は華族となって東京に移住し、伯爵を賜った。茂憲は、英国に遊学経験のある開明的な思想の持ち主でもあった。
 政府は上杉に政治家としての手腕を期待したのではなく、むしろ華族ゆえに政治の実務にうとく、旧慣を実施するに都合のいい人物として、おくりこんだふしがある。
しかし、結果的にはその補佐役の池田成章(上杉家家令)の儒教的倫理に裏打ちされた政治手腕と、上杉の民衆に対する慈愛心やヨーロッパから学んだ合理的精神が、沖縄県の実情を看過すべからざる問題として浮かび上がらせ、改革をうちださせることになったのである。
だが、上杉の改革は旧支配層の反発をまねき、一般県民にもその意義が十分に理解されないまますすめられたため不満がおき、必ずしもうまくいっていたとはいえなかった。
いずれにせよ、政府の思惑はみごとにはずれ、またそのことが上杉の県令解任を早めることにもなった。

 

 

1881(明治14)年、沖縄県の第2代県令に東北の旧米沢藩出身の上杉茂憲(もちのり)(1844~1919)が任命された。
上杉県令は、初期県政において、旧慣の改革を試みた政治家として知られている。
 上杉は、前県令によってすすめられていた旧慣の調査を継続し、着任した年に「新政による県民の生活実態を探り、県政の方策を決める」ことを目的に沖縄各地を巡回し、翌年には、久米島・宮古・八重山を視察した。その時の記録が『上杉県令巡回日誌』として残っており、近代沖縄を知る貴重な資料となっている。
 この視察で上杉が見たものは、重税と貧困にあえいでいる農村の実態(5)と、いっぽうで大きな屋敷を構えて米倉を一杯にしている富裕な地方役人の存在、さらに農民を不当に搾取している地方吏員の姿であった。こうした状況を目の当たりにした上杉は、改革の必要性を痛感し、
とりあえず、教育と勧業を重点施策としてとりくんだ。
 教育面では、小学校を増設して師範学校を開設し、最初の県費留学生として謝花昇らを東京へ派遣するなど、人材育成に力を入れた。
 勧業面では、サトウキビの作付け面積を拡大し、製糖技術の改良をはかるなど、糖業を奨励した。また、人身売買を禁止するなど、社会風俗の悪習をとりのぞくことにも力をそそいだ。

 しかし、疲弊した農村を救済するには、旧慣を改革しなければならなかった。1882年3月、上杉は「地方吏員改正」の上申書をたずさえて
東京へおもむき、沖縄の旧慣改革が急務であることを政府に訴えた。
 上申の内容は、「沖縄県の賦税は加重で、吏員(公務員)の数も多くかかえている。このような現状を打開するためには、地方吏員の数を減らし、行政組織を簡素化するしかない。これによって見込まれる吏員給与の減額分を、負債の償却や教育・勧業その他の事業費にまわしたい」というものであった。
 

この上申書に対する政府の回答がおくれたため、上杉は5月に再度上申し、沖縄県の「37万人余の庶民」がいかに重税と貧困にあえいでいるかをのべ、「吏員改正」が
急務であることを重ねて要請した。
 しかし政府は、この上申を時期尚早だとして受け入れなかった。県政の運営は、旧支配層の協力が必要であった。琉球復旧運動がさかんにおこなわれている時期、旧慣を
改革して彼らの反発をまねくことは得策でないと考えたからであった。
 
 政府は沖縄県民の民情視察のため、参事院議官補・尾崎三郎を派遣した。尾崎の報告書は、上杉の改革が士族層の反抗をひきおこしていることを指摘していた。
1883(明治16)年、政府は沖縄県の実情調査のために、会計検査院長・岩村通俊(みちとし)を派遣し、その報告書にもとづいて上杉の県政改革を批判して県令を解任し、そのまま岩村を県令に任命した。中央の会計検査院長が地方の県令をかねるという、異例の措置であった。これによって、上杉がてがけた県政の改革はつぎつぎと廃止され、沖縄の旧慣制度が継続されることになった。

 

※ 上杉は沖縄を去るにあたって、3000円という当時としては破格な金額を奨学資金として寄付している。

 

上杉茂憲(もちのり)は沖縄の県令として、上杉家の名に恥じない誉れ高い存在といえるのでは

ないでしょうか。

 

明治期の近代沖縄に影響を与えた人物は、不思議と、上杉をはじめ北国出身の人が多かった。
国権論の立場から国防としての「南島」開発を提言して「南嶋探験」を著した笹森儀助と、沖縄の歴史・風俗・言語・文学などの概説書『琉球の研究』を著した加藤三吾は青森県出身であった。
人頭税廃止に立ち上がった中村十作と「おもろそうし」の研究に光をあてた田島利三郎は新潟県出身、石垣島の気象観測に一生をささげた岩崎卓爾は宮城県出身であった。

 

※添付の写真は沖縄県高等学校教科書から。

 

最後についでながら

 

中国と沖縄

 

 政府が琉球藩を設置した時に清は琉球の領有権を主張しており、廃藩置県で琉球を沖縄県として日本国家に組み込んだことで日清関係に緊張が走りましたが、清の武力介入は行われませんでした。
 1880年日本政府は日清修好条規への最恵国待遇条項の追加と引き換えに先島諸島割譲を提案し、清もこれに応じて仮調印はしたものの妥結に至らず琉球帰属問題の解決にはなりませんでした。
 しかし1894年の日清戦争で清が敗れると、台湾を割譲すると同時に、琉球に対する日本の主権を認めざるを得なくなり、領有権問題が解決した。中華民国は沖縄諸島は日本領であると正式に承認したのです。