以下 一説には  From JAFT  (抄)

 

● 遣隋使、遣唐使の時代、毎回大型船を4〜5艘仕立てて、日本の文物財宝、特に日本は古来、世界有数の金の産出国でしたから、大量の金などを積み込んで、日本は使節を支那に派遣していました。ところが往復の成功率は、2〜3割程度です。

 

● けれどそんなに海の旅が危険なら、朝鮮半島を陸路で北上すれば良いだけのこと。ところが東シナ海横断ルートなどという、外洋のど真ん中を突っ切るような危険な航海を選択しました。これが何を意味するかというと、シケにあって遭難する危険があったとしても、朝鮮半島を陸路で行くよりは、はるかに、海路の方が安全性が高かったということなのです。

 

● 遣唐使、遣隋使の成功率の低さが、外洋船舶の造船技術が未達だったなどと、アホな説を唱える学者がいますが、弥生時代の日本産の黒曜石の分布などをみても、日本は日本海を経由して満洲あたりにさえも、盛んに交易をしているのです。数千年も前から、日本は海洋ルートで、北は青森から南は沖縄、台湾、フィリピン、ベトナム、遠くインドにまで、盛んに海上交易をしているのです。時代をもっとさかのぼれば、縄文時代には南米のエクアドルまで交易の足を伸ばしていたことが、魏志倭人伝に書いてあります(水行一年の先にある黒歯国は倭国の領土)。 つまり、それだけの造船と航海技術を日本は持っていたのです。

 

● にも関わらず遣隋使・遣唐使の航海が危険だったというのは、もはや「人為による不成功原因」しか考えられないのです。そして " 旅人を襲って利得を図る " というのは、紀元前2世紀の衛氏朝鮮もさりながら、大東亜戦争終戦直後の朝鮮半島において、多くの日本人女性が酷い目に遭わされたり、財物を奪われたり、それこそ、着ているものをふんどしまで剥がして奪ってしまう濊族の行動に、そのまま現れています。

 

 

【濊族とは】

 当時、朝鮮半島にいた種族の総称。原始朝鮮人と言いたいところですが、違います。朝鮮半島では、いまから12000年前までは、人が住んでいたことを示す遺跡が数十箇所あるのですが(日本だと5万箇所くらい)、ちょうどその頃から約7000年前までの5千年間、人類がいたことを証明する遺跡がまるでありません。

 

①1万2000年前まで住んでいた人たちが、火を使い、半島の森を燃やし尽くして禿山にし、半島に人が住めなくなって、どこかに去ってしまい、約5千年をかけて自然がようやく緑を取り戻したことで、人が住めるようになった、ということを表しています。

 

② そして朝鮮半島には、北から遊牧民である女真族がすこしずつ入植するようになるのですが、広大な平野部が広がる大陸だから遊牧が可能なわけです。樹々や森に覆われた朝鮮半島では、遊牧生活も規模の小さなものしか営めず、結果として、相当貧しい人たち(大陸に戻れなくなった遊牧族)が、そこにいたわけです。

 

③ その彼らに、支那人(漢族)は、「濊(わい)」の文字を当てました。「濊」というのは、汚穢(おわい)のことです。つまり糞尿のことです。古代の支那人は、たとえば日本人に対しては「背が低い人」を意味する「倭」の字を当てたりして、だいたい周辺民族にはろくな字を当てなかったのですけれど、なかでも「濊」は最悪です。

 

※ 糞尿を意味する「汚穢」の「穢」は「のぎへん」です。のぎへんというのは、穀物を意味する漢字で、これが「歳」とくっついて、毎年の穀物、これに「汚」の字がついて、穀物を育てるための肥料を意味する漢字になっています。つまり、肥溜めで有機発酵させた糞尿が「汚穢」であって、不潔なものというよりも、日本では人々の役に立つたいせつな肥料という意味で、この熟語が作られています(二字熟語にして意味をもたせるのは日本の文化です)= ところが「濊」はサンズイであり、直接、糞尿を意味します。どれだけ汚い連中だったのか、ということです。

 

 

紀元前3世紀から紀元4世紀の初頭まで、その濊族が頻繁に楽浪郡、帯方郡を襲いました。けれど、ことごとく撃退されていたわけです。なぜ城塞側が撃退できたのかといえば、これはもう文化文明力の違いとしか言いようがありません。 けれど、おかしいのです。 周囲に濊族しかいない地域に、どうして漢や晋や魏などの大帝国が、わざわざそこに郡庁を置き、人や兵を派遣していたのでしょうか。 普通に常識で考えればわかることですが、城を営み兵を派遣するとなれば、それは経費がかかることなのです。ということは、その経費を補って余りあるだけの軍事的、もしくは経済的メリットがなければ、そこに郡庁を置く意味はありません。しかも置かれていた期間は、まる500年間なのです。

 

① このことは、当時の地図をみれば、答えは一目瞭然です。当時、朝鮮半島の南部(いまの韓国の南半分)には、馬韓、弁韓、辰韓と呼ばれる地域がありました。そしてこの馬韓、弁韓、辰韓は、倭人の住む、倭国の領土だったのです。

 

② この馬、弁、辰は、支那側の呼称です。倭人たちは、これらの地を加羅(から)と呼んでいました。その「から」に、漢人たちは「韓」の字を充てていました。そして郡庁が置かれていたのが弁にあった「みまな(任那)」で、これがいわば明治になって置かれた朝鮮総督府のようなところです。

 

③ 倭人たちが朝鮮半島南部に入植をはじめたのは、いまから7千年ほど昔にさかのぼります。この頃鹿児島沖でアカホヤの大噴火があり、土地が火山灰に覆われたたため、倭人たちは腹を満たすために、大型の魚を採るために、沖合に漁業に出るようになりました。それが流され、海流とともに朝鮮半島に流れ付いたわけです。この時代は、時代区分でいえば縄文時代ですが、その縄文時代、倭人たちは遠く南米にまで足を伸ばしていたことが遺物によって確認されています(南米で縄文式土器出土)から、朝鮮半島と日本の間の航海など、お手のものです。そしてちょうどこの頃から、辰韓あたりから、日本式と同じタイプの大型の釣り針が出土しています。

 

④ つまり、倭人たちの入植がはじまったのです。そしておそらくは紀元前3世紀頃には、加羅の地は、倭国の一部として、大きく栄えていました。その倭国は、まだ鉄器がなかった時代に、鉄より硬いヒスイを加工して勾玉にしてしまうほどの、高い工業生産力を持った国でした。先日も書きましたが、富というものは、奪うか創るかでなければ築くことができないものです。そして奪うことよりも創ることを大事とした倭国は、その頃から、高い工業生産国であったし、だからこそ、倭国との交易は、漢王朝にとっても、魏にとっても、晋にとっても、たいへんな魅力と富をもたらすものであったわけです。

 

⑤ つまり、漢や魏や晋が、楽浪郡、帯方郡に郡庁を置いたのは、濊族を治めるためでもなんでもなくて、倭国との交易をスムーズに行うため、長い距離の交易の途中で濊族に襲撃されるのを防ぐための必要から、まさにそこに郡庁を置いていたということが、歴史の必然から、わかります。

 

⑥ 同様に、倭国も朝鮮半島に郡庁を置きました。それが先ほど申し上げた「任那日本府」です。馬、弁、辰は、日本式の呼び名ですと比自保(ひじほ)、南加羅(みなみから)、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳(たづみ)、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)などと呼ばれていました。

 

⑦ 一方、朝鮮半島の中部に生息した濊族は、長い年月の中で、倭人たちが教育を施し、加羅における鉄の採取の労働力として使うようになりました。その後に、いまの北朝鮮あたりに高句麗、いまの韓国北部に百済、新羅ができます。

 

 

倭国の影響を受けた濊族の一部が 百済・新羅を興した       

 そしてこの両国は、日本に朝貢し、日本の技術を導入することで富を貯えました。そして両国は、国力を養ったものの、結局新羅が裏切って支那と結び、百済を滅ぼしたうえで、高句麗も支那の軍事力を借りて滅ぼし、新羅王朝を形成しました。その新羅も、やはり国を裏切って支那と結んだ高麗によって滅ぼされました。その高麗も、支那と手を組んだ李氏朝鮮に滅ぼされました。そしてずっと朝鮮半島は、支那の属国とされ続けてきました。