ヘレンケラーとサリバン先生について、私が何年か前に書いたブログ記事があります。
ひどい癇癪持ちだったヘレンも、サリバン先生から受けた教育により、歴史に名を残すまでになりました。
犯罪を起こしてしまう人たちも、誰かがきちんと寄り添って教育を受けさせていれば、彼らの話をきちんと聞いてあげることができていれば、彼ら一人ひとりの力を最大限に伸ばしてあげられる環境さえあれば、社会に貢献できる立派な大人になれたのでは、との思いがあります。
悲しい事件が次から次に起き、その都度犯人が断罪されるのを見るにつけ、何とももどかしい気持ちになります。
今の教育現場では、「規範意識」という言葉がよく使われています。要は、ダメなものはダメということを分からせるってことです。
私は、いつもこれが引っかかるのです。
ルールさえ守っていればいい。
→ルールを守れなければ悪者。
これが進みすぎると、正義感がナイフになり、正義の名の下に平気で人を傷つけるようになってしまいます。
ルールを守ることが難しい社会的弱者もたくさんいます。ルールを守れないことを理由に彼らを排除することが、平気で正当化されるようになります。
「ルールを守る」ことより大事なことがあるはずです。
教育「EDUCATE」の語源はラテン語の「EDUCATUS」で、「E」は「外へ」を意味する接頭語で、「DUCERE」は「導く」で、「能力を導き出す、引き出す」という意味なのだそうです。
彼らの持っている力を引き出すのが教育なのです。
あれもダメ、これもダメ、とがんじがらめにして、そこにある型に一生懸命はめようとするのは教育ではありません。それは、単なる大人の都合でしかありません。
型にはまらないのであれば、さようなら。
こっちは人がたりません。
こんなことが普通に語られる教育現場である限り、悲しい事件は起き続けるでしょう。