僕は、ロケット教室のときに、
「いまからロケットをつくります!」といいます。
子ども達は、「よっしゃ!」みたいにしています。
次に、「作り方は教えないから、皆さんがんばってください。」といいます。
子ども達が、「え?」ってなります。顔を見合わせている子が多いです。
急に不安そうになります。
そこで、僕がなぜ作り方を教えないのかの説明をします。
前にね、ここで宇宙の学会がありました。
そこには、NASAの研究者が20人と、JAXAの研究者が20人来ました。
(正確には、NASAだけではなく、海外の様々な宇宙機関の人達と、JAXAだけではなく、様々な国内の宇宙関連の研究をしている大学などの研究者です。人数もおおよそです。)
みんなにロケットを作ってもらいました。もちろん作り方は教えません。
そのとき、日本の研究者は、最初から最後まで、黙々とつくっていました。
「いや〜。まじめだなあ。」と思いました。
外国の人はどうかな?と思って見てみたら、
最初から立って歩いています。わいわいがやがやうるさくてしょうがありません。
学校だったら、絶対に怒られるパターンです。
で、結果どうなったのか?
日本人の研究者がつくったロケットの、約半分が空中でばらばらになりました。
外国の研究者がつくったロケットは、全部成功して、お祭り騒ぎで喜んでいます。
なにが違うのか?
日本人は、「わからない」を「はずかしい」と思ったんです。
だから、わからないことがまわりにバレないように、適当にごまかしました。
(実際に恥ずかしかったのかどうかはわかりません。ただ、誰にも聞かずに、
1人で組み立てたのと、成功率がかなり低かったのは事実です。)
でも、外国の人は、わからないから、他の人に聞いたんです。
たったそれだけの違いです。
みんなの中にも、「わからない」を「はずかしい」と思ってる人がいるかも知れません。
でもね、「わからない」は、恥ずかしくもないし、ダメでも無いです。
なぜなら、世界はとっても広いんです。
世界のすべてを知り尽くすことは不可能です。
世界は、はわからないことに満ちあふれているんです。
わからなければ、調べればいいんです。
だから、まずは説明書を見てください。頑張ってつくりました。イラストも一杯描きました。
それでもわからなかったら、周りを見てください。
だって、おんなじことやってんだもん。
学校ではカンニングしたら怒られるけど、
社会では、見て盗め、っていわれるからね。練習してね。
それでもわからなかったら、サンプルのロケットを見ていいよ。
それでもわからなかったら、周りの人に聞いてもいいよ。
そして、一番大事なことは、見て聞いてわかったことを、「しゃべる」です。
そのときは、「こうしなさい!」ではなくて、
「僕はこうやったよ」「私はこうしてみたよ」です。
みんなが途中途中で見せあいっこしたら、心配が無くなるね。
人生はテストではありません。
無理して一人ぼっちにならないでください。
勇気を出して、聞いてください。
わかったことをしゃべってください。
多くの若い人が、先輩の説明を聞いて、
「わかったかい?」と聞かれたら、
わかっていないのに「わかりました」と答えます。
なぜなら
(1)せっかく教えてくれた労力を無にしてしまうようで申し訳ない。
(2)説明してくれたのにわからない自分の評価が下がるのが怖い。
(3)もう一度教えてもらうと、相手の時間を使ってしまうから申し訳ない。
(4)そもそも最初っからわかってませんなんていったら、あきれられてしまう。
(5)なにがわからないのかさえわからないことを知られたら、がっかりされる。
(6)あなたの教え方ではわかりませんなんていったら、傷つけてしまう。
などなど・・・・
若い人達は、しったかぶりをしているのでは無いのです。(そういう人もいるけど)
大抵は、優しすぎるのです。
相手を傷つけたり、迷惑をかけたくないのです。
相手をがっかりさせたり、あきれられたくないのです。
でも、わからないものはわからないのです。
この状態を解決するためには、
まずは、相手の状態を知るところからはじめないといけません。
たとえば、
「ハンダ使ったことあるかい?」
「はい。ハンダは得意です!」
を、信じちゃいけません。
なぜなら、お互いの言っている経験の内容が同じでは無いからです。
教える側は、基板のハンダのつもりで、
教わる側は、板金のハンダのつもりだったりしたら、
それはもう、技術的にまったくかみ合わないです。
(板金のハンダやってきてる人って、いまは希少種ですけど。僕は、1.5kwのハンダごてとか、炉で焼くタイプのハンダごて使ったことあるよ。)
まずは、「やってみせ、いってきかせて、させてみて、ほめてやらねば・・・・」です。
ところが、学校での「教えられたことを覚える」のが得意だった人は、
まず、「言って聞かせて」が長いです。ボリュームが大きすぎます。
そして、「させてみて」が高度すぎます。
最後に、「なんでできないのかな?」「さっき教えたよね?」ときます。
もう、やる気などどこかに消えてしまいます。
これでは、相手の実力を知ることなど不可能です。
そして、そのあとも、相手の能力は増えていかないです。
いくら教えても、覚えてくれない。できるようにならない。
という状態は、ほぼ間違いなく、教える側の問題です。
教え方を変えるか、教える人を変えないと、状態は改善されません。
ある教え方を提供する。
もうそれを経験済みの子達にとっては楽勝でいい成績を示す。
その教え方と相性のいい子は出来るようになる。
しかし、その教え方と相性の悪い子は、いつまでも出来ない。
その子達に、「努力しろ」「まじめにやれ」と言ったところで状態は変わらない。
それどころか、
「できない自分がダメなんだ」
「自分のせいで迷惑をかけているんだ」と、
自信をどんどん失っていく。
そういう子は、「わからない」を恥ずかしいと思います。
そして、やったことがないことに挑戦できなくなります。
できることが減っていきます。
でも、特別支援や、高等養護の学校は違いました。
様々な資質の子達の、資質を見極め、その子達に適した学びを提供していました。
その結果、ほぼすべての子が、「学校に入る前より、できることが増えた」になるのです。
そういう子達は、「わからないこと」を質問できます。
やったことがないことをやりたがります。
工業製品を作るように、沢山の子ども達に同じ教育をし、
その教育に相性のいい子はOK。相性の悪い子は「おちこぼれ」。
これは、教育では無く、「選別」にすぎません。
人の能力を増やし、できることを増やすのが、本当の目的だったはず。
教える側が、もうすこし、自分の教え方ってあっているのかな?
もっといい方法は無いのかな?をしっかり考えて、
自己を変革していく努力をしなければ、
社会は、「できない」人ばかりになってしまうでしょう。
最後に、繰り返します。
いくら教えても、覚えてくれない。できるようにならない。
という状態は、ほぼ間違いなく、教える側の問題です。
教え方を変えるか、教える人を変えないと、状態は改善されません。