学校に行きたくないのに、学校に行っていた理由は、けっこう地獄。 | 植松努のブログ

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講演でしゃべりきれないことを書きます。

僕は、芦別市の緑が丘小学校に入りました。

姉が通っていた学校に行けることがうれしかったです。

はじめて、教材をもらった日には、わくわくしました。

算数の教材は、どうやって使うかわからないからこそ、ワクワクしました。

担任になってくれた先生は、女性でした。だから、安心しました。

僕の小学校生活は、輝いていました。

 

でも、担任の先生は、思っていたのとは違っていました。

朝、先生の機嫌が悪いと、当たり散らされます。

先生の前を横切ったら、無礼だと、いきなりビンタをはられます。

1年生が転倒するほどのびんたでした。

 

何か問題を起こした子がいたら、クラスの全員でその子をつるし上げるように

指導されました。

やりたくないけど、やらないといけませんでした。

 

休職で嫌いなものがあっても、全部食べるまで片付けられません。

途中で吐いてしまったら、吐いたものまで食べさせられました。

まわりで、みんなが掃除をしています。

みんなの視線が痛かったです。

 

図鑑を読んでいたら、「そんなもの読んでるヒマがあったら勉強しなさい!あんたは頭が悪いんだから!」と怒られました。

絵を描くときは、ものすごく修正が入って、僕の絵ではなくなりました。

(でもその絵は、賞をもらったりします。)

僕は、なんのために生まれてきたのかな、と思いました。

 

それは、僕以外の子もされていましたから、ある意味、平等な先生だったのかも。

それでも、当時でもかなりおかしな先生だったと思います。

ただ、けっこう年配の女性だったので、他の先生についても怒ってることが多く、

他の先生は、文句を言えない感じでした。

 

僕の母さんは、僕がひどい目にあっていることを知っていたようです。

でも、なにもしてくれませんでした。

ただ、一度だけ教えてくれたことがありました。

「私がPTAの役員を断ったから、目をつけられたんだと思う・・・」

そういうものなのかな?と疑問に思ったのをおぼえています。

だって、他の子もやられてるから。

母さんは、父さんに暴力を振るわれていました。僕はそれが嫌でした。

僕は、母さんに心配をかけてはいけない、と思いました。

 

僕は、僕が悪いのだと思っていました。

僕は、その先生が怖かったし、大嫌いでした。

 

でも僕は、学校に通い続けます。

その理由は、家がもっとひどかったからです。

 

あまりにもひどい先生の行為で、僕は心の平静を失っていきます。

やがて、熱が出たり、おなかが痛くなったりしました。

先生に「なんだそんなもの!」と罵倒されながらも保健室に行くと、

養護の先生は優しくて、早退することを勧めてくれました。

でも、家に帰ったら、父さんが「なんだそんなもの!」と怒鳴って、

僕を車に乗せて、学校に送り返してくれました。

父さんは暴力の人でした。

父さんが頭をかくために手を挙げるだけで、びくっとなるほど、僕は恐れていました。

だから、父さんには、なんの説明も言い訳もできません。

教室に入ると、先生が意地悪な笑顔です。辛かったです。

こんなことが、何回かありました。

 

こんな毎日は、辛すぎると思いました。

僕の家は、国道に面していたので、けっこう交通量がありました。

車に轢かれたら、学校に行かなくてすむのかな・・・

と毎日のように思っていました。

 

でも、ある体育の日、僕は平均台から落ちました。

そのときに、首をひどく捻ってしまったみたいです。

さすがに、先生も慌てたようで、僕は整骨院に連れて行かれました。

レントゲンを撮ったりしたら、「首の骨がすこしずれている」と言われました。

このときは、父さんも「学校に戻れ」とは言いませんでした。

僕はどうどうと学校を休めました。

 

依頼、僕は、頻繁に首が痛くなるようになりました。

そうすると、学校を休めるからです。

でも、病院は退屈だし、なんともないところを治療されるから、痛いのなんの・・・

それでも、僕は学校に行かなくていいことがうれしかったです。

 

この先生には、3年間受け持たれました。地獄でした。

いまでも、当時のクラスメートは、この先生を殺してやりたいと言っていますから、

僕の妄想ではなかったんだな、と思います。

 

4年目になって、先生が替わって、それからは学校の景色に色がついたように感じました。

鬼ごっこや、プール遊びが楽しくなりました。

紙飛行機や、ペーパークラフトに夢中になったのも、この頃です。

僕の最初の担任の先生は、伝え聞いた話では、翌年の保護者が問題を提起して、

先生の行動が明らかになり、学校を去ったそうです。

僕らの保護者は、なぜ、3年間も文句を言わなかったのかな、と思いました。

 

僕は、最初の3年間、学校に行きたくないのに、学校に行きました。

このときの経験は、僕によくない影響を与えていると思います。

僕の心の中にある、残酷な気持ちや、冷酷な気持ちは、この頃に生まれたと思います。

そして、面倒なことや嫌なことがあると、あきらめたり、やめたりして、

問題を解決しようとしてしまう傾向も、この頃の経験から身に付いたものです。

でも、こんな僕が、なんとかなってるのは、

小学校に上がる前の僕にじいちゃんが言ってくれた「つとむは優しいね」という一言です。

僕は、優しくなりたい、と思いました。

それが、僕の中の暴力をおさえています。

でももし、じいちゃんのこの言葉を聞いていなかったら・・・

僕の人生は、めちゃくちゃに破壊的なものになっていた気がします。

 

僕が、この先生と出会えて、一番よかった点は、

「学校はまともとは限らない」という情報を得たことです。

神戸の教職員いじめの問題は、おそらく多くの人が「ああ、あるある」と感じたと思います。

というか、先生という職種に限らず、普通の会社でも、いじめやパワハラは普通ですから、学校で発生しないわけがありません。

もちろん、まともな先生も沢山いますが、異常な人の大きな声の前では、

多くの人が自分の声を潜めてしまいます。

これは、子ども達のいじめでも問題になる、「傍観者」「無関心」です。

そんな状態で、まともな教育ができるわけがないです。

それは、子ども達への連鎖して濃縮していきます。

 

でも、連鎖は断ち切れます。

自分がされて嫌だったことを、自分がしない、と誓うだけで、

くだらない連鎖は、ぶちっと切れます。

 

だからこそ、重要なのは、辛いとき、苦しいときに、

「辛い」「苦しい」「死にたい」と繰り返して言うだけではなく、

「なんで辛いと思うのかな?」「なんで苦しいと思うのかな?」

「なんで死にたいと思うのかな?」を考える事です。

その上で「だったらこうしてみたら?」です。

 

僕が子どもの頃、大人が僕を助けてくれなかったのは、「どうしていいかわからない」

から、「とりあえず様子を見よう」だろうな、と思います。

でも、大人と子どもの、時間の流れ方はまるで違います。

大人が耐えられる時間が、子どもには耐えられない時間だったりします。

 

子どもが学校に行きたくない、というなら、

なぜ行きたくないのかを考える必要があります。

ただし、子どもも考えが整理できていないことがあるし、

親を心配させまいとして、本当の事を言わないことが多いです。

だから、これは簡単な事ではありません。

親を心配させたくないのは、親が問題を解決できないで困っている姿を見ているからです。

だから親は、問題を解決するプロセスを、子どもによく見せた方がいいです。

 

子どもは、けっこう大人に気をつかって生きています。

子どもが、もう少し、大人を頼って、助けを求められるような存在になりたいものです。

 

大人が、「人からどう思われる」「人からどう見られる」「人からこう言われる」を

気にしすぎたり、不安な顔や、困った顔をすると、子どもはそれを察知します。

しかし、不安な顔をしない、というのは、演技ではいけません。伝わります。

本心から。不安を感じないようなハートが必要です。

そのためには、普段から、問題を解決する練習をし続けることが重要です。

「自分はこう思う」「自分はこうしたい」を紙に書くといいと思います。

 

学校では、テストの問題の解き方(というか、暗記)だけ教えます。

でも、人生においては、問題(プロブレム)の解き方の方がよっぽど重要です。

問題を解決する努力をし続けることが大事です。

空振りも多いけど、バットを振らないとホームランも出ないからね。