愛を教えてくれた君へ | 植松努のブログ

植松努のブログ

講演でしゃべりきれないことを書きます。

「いぬやしき」というマンガがあります。

僕は犬が好きなので、犬に関係するマンガかと思って買ってみたら、大違いでした。

最初は、「なんじゃこりゃ?」と思っていましたが、

巻が進むにつれ読み込んでしまいました。

そして、アニメの放送。

これがまた、なんというか、とてもよかったです。

なんといっても、音楽がいい。

エンディングでは、毎回泣いてしまいます。

 

で、この「いぬやしき」の中では、

「自分と関わりの無い人のことなんてわからない。死んでも悲しくもない。むしろ、自分が好きなマンガのキャラとかが死んだ方が、よほど悲しい。」というような表現があります。

 

これは、僕自身も中学生くらいの頃には、そんな風に考えていたような気がします。

 

でも、そうじゃなくなったのは、おそらく、あのときです。

 

中学生の頃に、太った子がいました。

動作も緩慢で、スポーツなども苦手です。

だから、みんなに笑われていました。

まもなく、笑いは、からかいになります。

からかいは、ちょっかいや、わるふざけになります。

そして、ちょっかいやわるふざけは、暴力になります。

みんなが、彼を追い回して、叩いたり、蹴ったりして笑います。

彼の持ち物や体操服をとって、なげて、笑います。

彼はそれに逆上し、怒ります。それがまた、みんなの笑いをよびます。

僕も、その様子を見て、笑っていました。(笑っていたと思います。)

でも、ふと、彼のジャージに目がとまりました。

そこには、綺麗な字で、彼の名前が書いてありました。ひらがなでした。

それは、どう考えても、彼のお母さんが書いてくれた字に思えました。

とたんに、ものすごく悲しくなりました。

彼にも、優しいお母さんがいる。

お母さんは、どんな思いで、この名前を書いたのだろう。

まさか、自分の子どもが、学校でこんな目にあうとは思わなかっただろう。

友だちと遊んで、楽しい思い出が沢山できたらいい・・・と思っただろうに・・・。

 

小学生の頃、僕は、先生から沢山の暴力を受けます。

バカにされ、ののしられ、叩かれ、

「こんなバカな子の親の顔が見てみたいわ!」となじられるたびに、

「ああ、自分のせいで、親までバカにされている・・・」

「ああ、自分のせいで、じいちゃんが大切になぜてくれた頭が叩かれている・・・」

と思うと、どうしようもないです。自分を責めて、泣くしかありませんでした。

僕は、自分の痛みで泣いたのではなく、

自分を思ってくれる人達のことを考えて泣いていました。

でも、その暴力の日々が、僕を変えていきます。

あの頃の僕は、必死で自分の居場所をつくろうとして、

無理をして、みんなにあわせた行動をしてたような気がします。

でもそれは、ものすごいストレスだったから、僕は、沢山の虫を殺していました。

トンボや、バッタや、蝶のさなぎや・・・

僕は、間違いなく、おかしくなっていました。

でも、それをやめることができたのには、

あのジャージに書かれた、やさしい文字が大きく影響してる気がします。

 

以来、僕の人を見る目が変わったような気がします。

どんな人にも、親がいる。愛している人がいる。

どんな嫌な人にも、家族がいる、大切な人がいる。

その人がめちゃくちゃでも、その人を愛している人がいる。

そう思えたとき、はじめて、「人の命は大切だ」ということが理解できた気がします。

 
そう思えたのは、自分が愛された記憶と、愛した記憶のおかげだと思います。
でも、それを忘れてしまっている人もいます。
それを思い出すためには、自分が小さい頃の写真を見てみるといいかもしれません。
そして、自分が好きだったことや、楽しかったことを思い出してみたら、
愛されていた記憶と、愛した記憶がよみがえってくるような気がします。
なぜ、小さい頃の写真なのか?
それは、まだ、社会の理不尽に汚染される前の自分です。
それは、まだ、生殖本能を愛と勘違いする前の自分です。
 
残念ながら、小さい頃から、暴力を受けまくってる人もいます。
愛された記憶や、愛した記憶がない、と言う人もいます。
でもね、いまからでも、愛することができます。愛されることもできます。
それは、間違いなく、10年後、20年後、立派な記憶になっています。
 
「いぬやしき」のエンディングの曲は、
クアイフの、「愛を教えてくれた君へ」です。
きっと、本当は、愛を教えてくれた君は、沢山いるんだと思います。