11/29(水)

数日前だが、昼に友人から一本の電話が来た。

「先ほど10時16分に伊集院静さんが亡くなりました。発表はまだのようです。」

昭和55年12月。
まだ成蹊大学の学生で勉強、バイト、空手など多忙な日々を過ごす中で、歌謡曲の作詞を勉強していた。

「新宿の女」「女のブルース」などを書いた石坂まさをさんを目指していた。

(後年その石坂まさをさんとの付き合いが西山茂行の運命を変えるが、それはまた別の機会に書きます。)

そして昭和55年12月に話は戻る。

内山田洋とクールファイブの歌で「ラストソング」と言う歌に出会った。

デビュー以来ずっと応援していたグループだが、当時ピンクレディーで売れていた都倉俊一さん作曲と聞きどんな歌になるのだろうか?と思った。

しかし、静かで渋い歌だった。

作詞を見て【伊達歩】
誰だろうと思った。

そして【コート】を【外套】と書いているのを見て、片手間に作詞などそんな甘い世界ではないな、と諦めの境地に至った。

以来、カラオケではよく【ラストソング】を趣味のように歌うが…

そこから8年。

元号が昭和から平成に変わった夏。

当時サンケイスポーツに記事を書いていた西山茂行へデスクの芹澤邦雄さんから電話が入った。

「西山さん、実は作家の伊集院静さんが夏休みに北海道の西山牧場を訪問したいとの希望なんですが」

断る理由などない。

伊集院静さんは数名の友人と3泊西山牧場に泊まり、いろいろと見学していかれた。

当然ながら西山茂行も一泊北海道西山牧場へ挨拶に駆けつけた。

女優・夏目雅子さんのご主人だったのもわしの興味にあった。

この時の話を伊集院静さんは後日
【潮騒の聞こえる牧場】
と言うエッセイにして書いてくれた。

何より西山茂行にとって大きかったのは、この時の伊集院静さんのお連れさんたちと知己ができたことだが、それもかなり後の話。

この夜の会話で、競馬ネタばかりではなく、いろんな話に及んだ。

その中で伊集院静さんが
【伊達歩】の名で作詞をしていること。

あの「ラストソング」を書いたのが伊集院静さんであったこと。

かなり衝撃であった。

その後、週刊ギャロップで伊集院静×西山茂行の対談。

また、伊集院静さんと行きつけの寿司屋が同じで、何度か隣り合わせたり、そこから細い長い付き合いが続いていた。

平成24年、馬主の窪田芳郎さんと銀座のクラブで飲む約束で待ち合わせしたら、窪田さんが伊集院静さんを連れてきた。

「久しぶりです。」

「なんだ知ってたの?」

そんな会話から、またそのクラブのママが共通の知り合いであることなどから、伊集院静さんとは銀座の飲み友だちとなった。

なんか、いつも同じ話で盛り上がり面白かった。

この頃に伊集院静の名で作詞を書いた
「哀しみの終わりに」
「春の旅人」
の2曲は西山茂行のレパートリーです。

また、この時期あの最初に北海道へ来た、伊集院メンバーの方々との縁は西山茂行に大きな力をくれました。
(詳しくはここでは書ききれません。またどこかで書きます。)

数年前、くも膜下出血で倒れてからは銀座で会うこともなくなり

そして今回の訃報。

大事な飲み友だちがいなくなりました。

寂しくなりますね。

合掌。

平成元年夏。北海道西山牧場にて。

左から2番目が伊集院静さん。

右から3番目が西山茂行。