【第2章 第2弾】オリジナル10集結 | サッカーを追い続けて♪

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サッカーが死ぬ程大好きだけど、
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幅広く皆様と交流出来ればいいなと思います。
ガンバ大阪・松本山雅・町田ゼルビア・サガン鳥栖
応援中♪

さて、自分の予想を遥かに上回る好評を博しているこの企画。
毎回長文・文章のみの記事ですが、全文チェックして頂いている方がいらっしゃる様で嬉しい限りです。
さて、前回の続きで、”オリジナル10”後半
⑥横浜フリューゲルス
正式名称は、AS・フリューゲルス(ANA-佐藤工業)
前身は、「全日空横浜サッカークラブ」とするのが通説ですが、
横浜市にあった中区スポーツ少年団(後にFCゴールを経て横浜サッカークラブと改称)。その後、全日本空輸が援助を行い、横浜トライスターサッカークラブ、1984年にチームの運営会社「全日空スポーツ株式会社」を設立後は全日空横浜サッカークラブ(全日空スポーツ)となった。
のが正解。
「フリューゲル(Flügel))」はドイツ語で「翼」の意(なお、サッカー用語としては英語圏でいう wing(翼)と呼ばれるポジションも、この名で呼ばれる。
ちなみに、金管楽器に”フリューゲルホルン”という楽器がありますが、こちらもドイツ語です。
このクラブについては、数章後にて詳細を書くことになると思いますので、ここでは割愛。
⑦清水エスパルス
チーム名の「エス(S)」は「サッカー、清水、静岡」の頭文字で、「パルス(PULSE)」は英語で心臓の鼓動を意味する。
殆どの方が勘違いされていると思うのですが、清水エスパルスには前身クラブが存在しません。
Jリーグ発足に際し、サッカー王国の静岡県よりJクラブをという事で発足。
正確には、
地元のサッカー少年団である「清水フットボールクラブ」のOBが中心となって結成された静岡社会人リーグ所属の「清水FC」が母体。
何故、母体クラブがない と記載したかというと…
日本サッカーリーグに加盟していないクラブでは唯一の加盟
だからです。
⑧名古屋グランパスエイト
前身は、トヨタ自動車工業サッカー部(1939年に創部)
チーム名の「グランパス(Grampus)」は英語で鯱(名古屋城の金鯱)、「エイト」は名古屋市の記章であり、末広がりを表す。公式にはこのチーム名は名古屋市による命名としているが、「エイト」の部分は豊田章一郎(トヨタ自動車社長(当時))が「トヨタ」のカタカナ字画数が「8」であることから命名したという。なお、2008年シーズンより呼称を「名古屋グランパス」へ変更したが、中日新聞は「1チーム11名のサッカーのチーム名に8が付くことのアンバランスさを解消すること」、「リーグ戦では8位前後が多いため、そのイメージを払拭すること」を理由に挙げている。
なお、夕刊フジ編集委員の久保武司による記事によると、この改称はメインスポンサーのトヨタ自動車から「Jリーグ創設の1993年から2007年までリーグ8位が5回もあったため、チーム名から『8』を外すようにと一度だけ指示した(験担ぎで)」と指示を受けたことによるとしている。
オリジナル10であるが、プロリーグ設立委員会から最初にプロ化を打診された際、トヨタ自動車は1990年5月に不参加を決定した経緯があります。
その後の委員会の尽力があって、オリジナル10入りが実現しました。
⑨ガンバ大阪
1980年創部の松下電器産業サッカー部が前身
現在でこそ、J1優勝常連クラブ、西の横綱、等々言われていますが…
浦和と並び、J黎明期はJのお荷物的存在でした。
ただ、内容や取り組みは決して悪くなく、当時のJでは珍しく、攻撃的な布陣を多く取り入れてきました。
現在のメインフォーメーションは 4-2-2-2
自分の知識が間違っていなければ、3-5-2システムを取り入れたのは、ガンバがJ初だと思います。
北欧・ヨーロッパ圏の選手をいち早く獲得し、また成功させたクラブでもあり、特筆すべきは、ユースの若手育成能力。
ガンバの助っ人として、一番に思いつくのは、
FW 浪速の黒豹 パトリック・エムボマでしょう
しかし、ガンバがこれまでにアフリカ圏内の選手を獲得したのは、このエムボマだけなのです。
2013年、屈辱的なJ2降格を味わうも、一年でJ1復帰。
復帰した2014年には、J1・ナビスコカップ・天皇杯とすべて制し、ガンバ史上初(Jでは、過去に鹿島のみが一度達成)の3冠達成。
J2優勝→J1優勝という記録は、柏レイソルが樹立しましたが、
J2優勝→J13冠という記録は、史上初。
⑩サンフレッチェ広島
前身は、自動車メーカー・マツダ(旧・東洋工業)のサッカー部であるマツダサッカークラブ。
クラブ名称の「サンフレッチェ」は、日本語の「三」およびイタリア語で矢を意味する「フレッチェ(frecce(複数形)」を合わせたもので、戦国大名・毛利元就の「三本の矢」の故事にちなんでいる
2007年J2降格も翌年J2優勝で、J1復帰。
このクラブもいろんな意味で出来事がありました。
1994年6月11日、磐田スタジアムで行われたジュビロ磐田戦で、広島は2-1で勝利し、サントリーシリーズ優勝を決めたが、その後チェアマン杯破損。
広島はそこから長らくJリーグ三大タイトルに恵まれなかったが、一部では「旧チェアマン杯の呪い」と考えるものもいた。2012年のJリーグ初優勝の際には、サポーターによりこのことを揶揄する弾幕が張られている。
初のJ2クラブ「日本一」達成
2008年3月1日、国立霞ヶ丘陸上競技場で行われたゼロックス・スーパーカップにおいて、この年からJ2へ降格する広島が、前年のJリーグ年間王者ならびに天皇杯覇者であった鹿島アントラーズに勝利し、2部制ができた1999年以降初めてJ2のクラブがJ2リーグ戦優勝以外のタイトルを獲得する偉業を達成した。
初の「ベストメンバー規定」違反による罰則
2009年6月3日、ナビスコ杯・対大分トリニータ戦において、先発メンバーのうち10人がJリーグ規約第42条違反、俗に言うベストメンバー違反とされ、同年9月15日のJリーグ理事会にて制裁金を科された。
ただ、広島は事前にリーグ側に規約について問い合わせを行っている事もあり、逆に規約の問題点も浮き彫りとなった。
他のJリーグクラブへの協力
発足当初、兵庫以西で唯一のJリーグクラブだったことから、広島は後に参入した西日本のクラブに積極的にノウハウ伝達や選手移籍などの支援を行ってきており、アビスパ福岡やヴィッセル神戸はスタッフに広島出身者を抱えていた。
そして、長崎県民としてはこのクラブを語るには外せない選手が、一人います。
前川和也
1968年3月22日生まれ 47歳
身長 189cm 体重98kg
この選手が、現時点で唯一の
長崎県北地域出身の”プロJリーガー”経歴者
長崎県平戸市出身。
”生きている壁”と称されるほど、シュートの反応も鋭く、ハイボール処理も巧みにこなした選手。
1985年 第64回高校サッカー選手権長崎県予選で、小嶺忠敏率いる国見高校と対戦し、32本ものシュートを浴びながらも完封し、母校を勝利に導いた。
キャプテン翼に出てくる、次藤 洋と佐野 満の所属が、
比良戸中 - 国見学院高校 - アビスパ福岡
となっているのは、前川和也の功績があったからかも知れませんね。
ちなみに、この年の選手権
1回戦 別府商 1-4 平戸
2回戦 秋田商 1-1 平戸(PK5-4)
となっています。
という事で、オリジナル10の紹介はここまで。
今後は、Jの歩んできた軌跡を中心に記載していきます。
あ、ちなみにJ2にもオリジナル10、J3にもオリジナル11がありますし、
昇格クラブなどもあるので、その辺のクラブ紹介は、随時行っていきます。

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