世界はディランを待っている | AFTER THE GOLD RUSH

AFTER THE GOLD RUSH

とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな音楽よ――

ボブ・ディランのノーベル文学章受賞のニュースを聞いて以来、ぼくの心はそわそわと落ち着かず、まるで場違いな場所に迷い込んだかのような、着心地の悪い服を着ているかのような、そんなしっくりこない気分の日々が続いている。まもなく一月が経とうとしているというのに、この違和感からいまだに脱却することができない。

 

無論、嬉しくないわけがない。当然の受賞であり、半世紀前に「ジョアンナのビジョン」で成し遂げた偉業に鑑みれば、もっと早く取って然るべきであったとさえ思う。ウンザリしてしまうのは、「辞退した方がカッコ良かった」「反戦歌手がダイナマイト王の章を受けるとは失望した」などと見当違いの批判をする輩が少なからず存在し、そういう戯言を抜かす連中に限って、ディランの作品といえば「風に吹かれて」と「戦争の親玉」、それとせいぜい「ライク・ア・ローリングストーン」位しか認識していないように見受けられることだ。昨日の“にわかディラン評論家”は、今日は“にわかアメリカ大統領選評論家”となり、明日は“にわかTPP評論家”の顔をして、ワイドショーで稼ぎまくることだろう。いやはや、お忙しいこった。

 

もっと性質の悪いのが、30年以上も前に発表された古の楽曲を得意気に掘り出してきて、「ディランはイスラエルの戦争犯罪を擁護していた」などと周回遅れも甚だしい告発を始める自称人道主義者の一群であり、この手の腐敗した政治臭がプンプンする連中は、歌詞の重層性や多義性を読み解く能力も無く、そもそもディランが問題の歌「Neighborhood Bully」のほかにイスラエル擁護の発言をしたことがあるのかさえ調べようともしない。ただ高みに立って糾弾するのみ。何たる知的退廃!

 

Neighborhood Bully――直訳すると、近所の「弱いものイジメをする奴」であり、ディランは、イスラエルを「イジメっ子」もしくは「ゴロツキ」に準え、しかしゴロツキもまた悲しいし辛いのだと歌っているようにも聴こえる。確かにパレスチナ人の塗炭の苦しみは一切描かれていないし、爆弾工場の下りは、前年(1982年)に発生したパレスチナ難民大量虐殺事件(サブラー・シャティーラ事件)に対する無知を曝け出しているようにも思える。しかし、気を付けなければならないのは、それはあくまでも「聴こえる」もしくは「思える」という聴き手側の印象であり、ディラン自身は何一つ特定も断定もしていないのである。ぼくの解釈としては、Bullyという比喩を使っている時点で、この歌を独善的なイスラエル讃歌と判断するのは短絡的に過ぎると思うし、むしろ悪漢の立場から世界を視るという点に、ディラン一流のシニカルで複眼的な詩心を感じてしまうのだが、どうだろう?

 

そして何より特筆すべきは、「Neighborhood Bully」の楽曲としての完成度の高さである。スピード感溢れるメロディ、力強くシャウトするヴォーカル、マーク・ノップラーとミック・テイラーのソリッドなリード・ギター、これらが混然一体となり、まるで70年代のローリング・ストーンズを彷彿とさせる豪放なロックンロールナンバーに仕上がっている。この曲が収録された「インフィデル」は、ぼくがリアルタイムで初めて聴いたディランの新作アルバムであり、掛け値なしに良い曲、良いヴォーカル、良い演奏で満たされた傑作と信じてやまない。特に冒頭を飾る「ジョーカーマン」は、内向的なキリスト教信仰時代を経て、ディランのリリックが再び“世界”との接点を持ったことを宣言する記念碑的ナンバー。この歌を今年、かの英国フォークの雄ヘロンが得意の田園スタイルでカバーしたことにも驚いたが、それ以上に彼らが今月来日するという報せには絶句するのみであった。ライブ観戦報告も含め、その話はまた次回。

 

◆Bob Dylan - Jokerman