フォークゲリラを知ってるかい? その18 | AFTER THE GOLD RUSH

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とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな音楽よ――

AFTER THE GOLD RUSH-渋谷ハチ公前の東京フォークゲリラ 新宿駅西口地下広場を追われたゲリラ達は、国電に乗り、第2、第3の「広場」の創出を試みた。例えば、渋谷駅ハチ公前広場。ここは、この年(1969年)の6月以降、慶応大や東工大のべ平連の学生達が、敷石に座り、のんびりとフォークソングを歌う場所で、「定価無料、カンパ50円」のガリ刷りの歌集が結構な売れ行きを見せるなど、買い物帰りの女性やアベックの人気をささやかに集めていた。しかし、この長閑な風景が一変する出来事が起きた。

 

8月2日、土曜の夕刻。待合せの男女でごった返すハチ公前に、新宿から流れてきた数人の若者がギターをかき鳴らしながら突如姿を現したのだ。「♪友よ、夜明け前の闇の中で――」。「私たちは東京フォーク・ゲリラです。今、新宿駅西口地下広場では機動隊が私たちの表現の自由を奪おうとしています。ここも“広場”です。皆さん、一緒に歌いましょう」。ハンドマイクを持った若者が群衆に呼びかける。ワっと沸き起こる拍手。通行人が足を止め、みるみるうちに、百人以上の人垣が出来る。渋谷駅一帯に熱気を帯びた歌声が響きわたる。

 

突然のゲリラ出没の報せに渋谷警察署は大いに慌てた。直ちに60名の署員が駆け付け、「通行の邪魔になる。移動しなさい」と説得にかかるが、聞き入れられないと、今度は強制排除の構え。腕をねじりあげ、力づくで連行しようとする。「おい、皆楽しんでるのに、酷いじゃないか!」「暴力反対!」。群衆の中から激しい抗議の声が上がり、それは程なくして「官憲帰れ」の大合唱へと発展。5百人以上の人の輪が、怒りに満ちたシュプレヒコールが、じりっじりっと警官隊を包囲する。ひるむ警官。「立ち止まらないでっ、歩きなさいっ!」と必死に警告するものの、増える一方の群衆には全く効果が無い。結局、この日、渋谷駅前では、夜8時過ぎまで反戦フォーク集会が続けられることとなった。

 

新宿から山手線外回りで5駅目の池袋にもゲリラは現れた。駅西口地下、東武ホープセンターの通称“オーロラプロムナード”前で、立教大べ平連を中心とした若者たちが、土曜の夜にフォークソングを歌い始めた。地下商店街の経営者らは、「フォーク集会の人たちと“対決”する気はないが、私たちは商売しているのだし、新宿のような状態になったら困る」と困惑顔。

 

ゲリラの中でも最も先鋭的で戦闘的なメンバーは、中央線の吉祥寺駅を新たな拠点とした。彼らは、あえて金曜午後6時から、駅北口改札前広場でフォーク集会を開催し、土曜は、機動隊で占拠された新宿駅へと“出撃”した。2千人の機動隊員に突き飛ばされ、蹴られ、追われながらも、アジるように歌い、叫び、そして、東口へ向かい、歌舞伎町のコマ劇場前小公園で反戦フォーク集会を敢行した。

 

このほか、有楽町数寄屋橋広場(ここは、69年春から東京フォーク・ゲリラが毎月第1土曜日にフォーク集会を開催していた)、蒲田駅西口、秋葉原駅、江古田駅等々、歌声は、国電や私鉄に乗って、都内各駅へと拡散していった。

 

都内だけではない。駅前フォーク集会は69年の夏以降、全国各地に広がったのだ。札幌の大通公園、金沢の中央公園、新潟の県民会館前広場、高松の瓦町駅前広場、盛岡駅前広場、そして、飛騨高山、会津、福岡、大牟田、熊本、栃木、鹿児島など、全国至るところの“広場”で反戦フォークの歌声が響き渡った。この時期、フォーク・ゲリラ発祥の地である大阪梅田駅地下街においても、活発でユニークな活動(通称「梅田大学」)が継続していたことも、書いておかねばなるまい。

AFTER THE GOLD RUSH-友部正人
そして、このムーブメントの中から、優れてオリジナリティに富み、抜きんでた才能を有した孤高のフォーク・シンガーが生れようとしていた。生来の破壊衝動を抑えられなかった「彼」は、高校時代、学生運動に関わり、名古屋市の本山交番を高校生安保闘争委員会の仲間達と火炎瓶で襲撃。鑑別所に入れられた経験を持つ。卒業後の69年春、交番襲撃事件で留置所から出られない仲間のためにカンパを始めようと、友人の竹内正美、朝野由彦らと名古屋市栄地区の路上で歌い始める。

 

「ぼくは名古屋の栄にあるオリエンタル中村というデパートの前ではじめてやってみた。誰も立ち止まる人もいないし、聞いてくれる人もいなかった。でも2回ぐらい日をおいてやったら、同じようにギターを持って歌う人たちが集まってきた。ボブ・ディラン以外にも歌のあることは知っていたけど、目の前でそれを聞いたのははじめてだった。それは、ジャックスだとか、岡林信康だとか、高田渡だとかだった。それから、ローリング・スト―ンズとか、バーズとかだった」。

 

「彼」は、居候していた劇団の謄写版で歌集を作った。表紙に大きく「栄解放戦線」と書き、それがいつしか彼らのグループの呼び名となった。毎週土曜の午後4時から6時まで栄の路上で歌う彼らの周囲には数百人の人の輪ができ、同時に警察の弾圧を受けることにもなった。「彼」は、「ゲバラのバラード」「石原慎太郎霊歌」などの自作のプロテストソングを作り、ギターを掻き鳴らし、ディランのようなしわがれ声で歌った。

 

翌70年、20歳になった「彼」は、名古屋を離れ、10トントラックで大阪にやってきて、喫茶「ディラン」を拠点に活動を始めることになる。「彼」の名を、友部正人という。(つづく)

 

【追記(5/19)】
上記事の時系列に誤りがあったため訂正する。名古屋市千種区猫洞通の本山派出所が火炎瓶で襲撃されたのは、友部正人が高校卒業後の1969年8月22日のこと。当時の地元紙(中日新聞)によると、実行犯は、フォークゲリラ「栄解放戦線」の中心メンバーと高校生グループとあり、記事の扱いの大きさからも、フォークソングを愛好する高校生達が過激な行動に走ったことに、名古屋市民が大きな衝撃を受けた様子を窺い知ることができる。
なお、私が資料として参照した「1972春一番」ボックスのブックレットに、竹内正美氏(センチメンタル・シティ・ロマンス-マネジメント)が1976年に記した以下の文章が引用されている。「友部と初めて会ったのが、69年6月の名古屋・交番所を襲撃して留置所に入っているたまたま共通の知り合いがいて、そいつのために街へ出てカンパやろうというのがきっかけ。その時、高校時代の同級生でもあった朝野(由彦)も誘って、街の一角で歌い始めた」。上記ブックレットはここで終わっているが、原文では以下のような文章が続いている。「3人は8月に交番に火炎瓶を投げて鑑別所に入る」。


参考文献等
・毎日新聞(1969年7月4日)
・朝日新聞(1969年7月5日)
・読売新聞(1969年8月3日)
・日本経済新聞(1969年8月3日)
・週刊アンポ創刊号(1969年11月17日)
・友部正人「ちんちくりん」(ビレッジプレス)
・1972「春一番」ブックレット
・フォークゲリラ冊子集(遊撃隊/冥土出版)