どうしても人から批判を受けたくないのなら、
何もせず、何も言わないことだ。
ただし、それでは生きているとは言えない。
(エルバート・ハバード)
ちんどん有志が太鼓やラッパで「We shall overcome」を演奏する。湧きおこる歓声。演奏に合わせ歌う者、タンバリンを叩く者、カズーを吹く者、マラカスを振る者、指笛を鳴らす者――。ありとあらゆる音が新宿の街に満ち溢れ、怒りの行進は、いつしか祝祭的な雰囲気に包まれていった。
これで本当にいいのか? デモがこんなに楽しくていいのか? 同じ疑問を、4.10の高円寺の時にも感じた。5.7の渋谷はその答えが見出せぬまま欠席した。あぁ、しかし、それは何と見当違いだったことか。デモは、決して修行ではなく、自由な表現行為であることを忘れかけていた。救い難い石頭の感じた違和感は、何より、このデモが、参加者一人一人の個性を尊重した柔軟で優れた表現活動であることの証左に他ならない。
「某氏のアピールは、主催者側の都合により無くなりました」。笑うに笑えないドタバタ劇が、出発直前のたぎるエネルギーに水を差した。脱原発に右も左も関係無い。デモには、革共同△○派に所属する人々が参加しても良いし、新右翼の若者が参加するのも自由だろう。しかし、これらの特殊な思想を持った集団の代表が、壇上に立ってアピールするとなると話は別だ。何故なら、それは、本人の意図にかかわらず、必然的に「連帯のメッセージ」としての色彩を帯びてしまうからだ。閉じた思想を後生大事にする者とは、一緒に「歩く」ことはできても、「連帯」することはできない。その違いを理解できなかったロフト関係者及び主催者は、胸に手を当てて猛省すべきだろう。
これまで、デモにカメラを持参することはなかった。妻と歩くこともなかった。でも、今日はカメラをポケットに入れ、妻と一緒に新宿の街を2時間以上かけて歩いた。いつもより、自然体で歩くことができた。ぼくは、ようやく、怒りの正しい吐き出し方を学ぶことができたのかもしれない。