五年経った今だからこそ書いておきたい、震災当時の記録です。
細かく思い出しながら書いたら長くなっちゃった
全然話が進まない
当時使っていた携帯電話を確認してみたら、メールの内容から日付がわかるものもあったので
確認できたところは日付も載せます。
あとは記憶が頼りなので間違っている部分もあるかもしれません。
震災のことを思い出して嫌な思いをさせてしまったらごめんなさい。





[2011年3月11日 14時46分]
家で母とテレビを見ていたときに地震発生。
経験したことのない激しい揺れに立っていることも難しく
とりあえず目の前にあったテレビが倒れないように押さえていた。母は食器棚を押さえていた。
窓ガラスが勝手に左右にスライドしていた。
1分か2分か続いた長い揺れがおさまってから自分の部屋に行ってみると本棚が倒れ、足の踏み場がなかった。
上着を来て、家の外の様子を見に行く。
鳴り響くサイレン。津波警報は「6メートルの津波」が来ると言っていた。
家の外壁が崩れたりしていないか確認して、余震が続いていて怖いのでとりあえず避難することに。
海まで歩いて20分の住宅街。さすがにうちまで津波は来ないと思ったけど揺れるのが嫌で避難。
財布と携帯電話だけ持って、道路が混むことを考えて車は置いていった。(発生後すぐだったので道路は全然混まなかった)
徒歩で15分程の避難指定場所の体育館に行ったら、屋根が落ちて入れないとのこと。
道を少し戻って公民館に行ってみると、少しずつ人が集まってきていた。
雪が降って寒かったけど、建物の中はガラスが落ちていて危ないので外に立っていた。
ラジオを聴いている人がいたので一緒に聴かせてもらう。そこで初めて地震の規模を知った。
(以前から宮城県沖地震が30年以内に99%起きると言われていたので、それがついに起きたのかと思っていた)
予想より高い津波が来るかもしれないと知り、車を持って来ようと思って家の方へ戻ると
「今津波がきている、ここから先に戻らないで!!」と止められたので公民館に戻った。
公民館から少し離れたところから津波が見えるみたいだと、見に行った人もいたけどわたしは見に行かなかった。(実際の津波はわたしも母も一度も見なかった)
携帯電話は繋がらず、仕事中だった父と弟と連絡は取れなかった。
数時間そのまま公民館の外で過ごしていたけど
「中学校で避難所の準備ができました」と放送があったので中学校に移動することに。
中学校の武道館が避難所として開放されていた。(体育館はガラスが落ちていて入れず)
中学校のグラウンドにはたくさんの車が集まってきていた。
長くなっちゃったのでつづきます。からの投稿
