震災の記憶②避難所へ | なおcafe

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ひとまわり年下夫との日々  宮城→大阪→宮城

震災当時の記録のつづきです。


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[3月11日 夕方]

中学校の武道館へ避難。

狭いけど畳が敷いてあるからまだ寒さがマシだった。

中学校の教師や、役場の人たちが避難してくる人に名前と年齢と住所を聞いてまわっていた。

その日は中学校の卒業式だったので、フォーマルな格好のまま避難していた人もたくさんいた。


避難所で、中学生のときに一緒に学校に通っていたAちゃんと久しぶりに再会。

(まさかこんな形で再会するなんて)


まだ被害の状況はわからなかったが

「〇〇まで津波がきた」「〇〇の橋が通れない」など、周りから情報が入ってきていた。

ラジオからは「〇〇のショッピングモールで男の子が亡くなった」ことを伝えていた。

それからしばらくの間、死亡の情報はこのひとつだけで何回も繰り返し放送されていた。


夜になって、興奮した様子の中学生の男の子が

「津波のあと見てきた!ヤバイよ!〇〇団地の集会所が流されてた!!」

その声が聞こえた瞬間、思わず母と目が合う。

その集会所は我が家の隣の建物。

そこが流れたとなれば、きっと我が家もなくなっているんだろう…。

まさか…でも…。。


夜になり、父と弟と電話が繋がった。(何回かかけていて、突然繋がった)

中学校の武道館に避難していることと、もしかしたら…家が流されているかもしれないことを伝えた。

車で職場へ通っている弟には、道路が壊れていて帰ってこれないかもしれないので無理して帰って来ないよう言った。

(中学生が集会所だと思った建物は海の近くから流されてきた家で、実際は我が家も集会所も流されていなかった)


避難所では、せんべいなどのお菓子が配られて(卒業式後の打ち上げで食べる予定だったらしい)

やっと横になれるスペースを確保して寝ることにした。

寒くて寒くて、誰のものかわからない柔道着を体にかけた。(武道館に脱いで置いてあった)


ラジオでは「ショッピングモールで男の子が亡くなった」ことに加えて

「荒浜で200から300人の遺体が打ち上げられている」と伝えていた。

暗い中で聴こえる「200から300人の遺体」という言葉が恐ろしくて耳に残っている。


20時過ぎに、近くの製油所で火災が起きて爆発音がしていた。

真っ暗な夜空に真っ黒な煙が広がっているのが見えた。


繰り返す余震の中、これから一体どうなるのだろうと不安になりながら

途切れとぎれに眠った。





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