あなた任せは良い妻と申してあるでしょう、

神任せが良い人民なのです、

この神と認めたならば理解して任せ切ってください、

太元の神様にホレ参ってください

真の信仰の第一歩です

【日月神示 春の巻】

 

よくよくあなた方に言っておく、羊の囲いに入るのに門からでなく他の所から乗り越えて来る者は盗人であり強盗である、門から入る者は子羊に飼われている羊である、門番は彼のために門を開き羊は彼の声を聞く、そして彼は自分の羊の名を呼んで連れ出す、自分の羊をみな出してしまうと彼は羊の先頭に立って行く、羊はその声を知っているので彼について行くのである、他の人にはついて行かないで逃げ去る、その人の声を知らないからである、イエスは彼らにこの比喩を話されたが彼らは自分達にお話しになっているのが何の事だか分らなかった、そこでイエスはまた言われた、よくよくあなた方に言っておく、わたしは羊の門である、わたしよりも前に来た人はみな盗人であり強盗である、羊は彼らに聞き従わなかった、わたしは門である、わたしを通って入る者は救われ、また出入りし牧草にありつくであろう、盗人が来るのは盗んだり殺したり滅ぼしたりするためにほかならない、わたしが来たのは羊に命を得させ豊かに得させるためである、わたしは良い羊飼いである、よい羊飼いは羊のために命を捨てる羊飼いではなく羊が自分のものでもない雇人はオオカミが来るのを見ると羊を捨てて逃げ去る、そしてオオカミは羊を奪いまた追い散らす、彼は雇人であって羊の事を心にかけていないからである、わたしは良い羊飼いであってわたしの羊を知りわたしの羊はまたわたしを知っている、それはちょうど父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである、そしてわたしは羊のために命を捨てるのである、わたしにはまたこの囲いにいない他の羊がいる、わたしは彼らをも導かねばならない、彼らもわたしの声に聞き従うであろう、そしてついに一つの群れと一人の羊飼いとなるであろう、父はわたしが自分の命を捨てるからわたしを愛して下さるのである、命を捨てるのはそれを再び得るためである、誰かがわたしからそれを取り去るのではない、わたしが自分からそれを捨てるのである、わたしにはそれを捨てる力がありまたそれを受ける力もある、これはわたしの父から授かった定めである、これらの言葉を語られたためユダヤ人の間にまたも分争が生じた

 

 

ヨハネによる福音書 第10章①の反芻

 

神の子羊、羊の門はイエス様です。

 

イエス様の声を聞き従う者は、イエス様の声に集まるのです。

 

イエス様の声を聞く者は生きるのです。

 

イエス様は、わたしたちに命を得させるために来て下さったのです。

 

羊のために自分の命を捨てて、天から死の世界に来られたのです。

 

天からイエス様が来られたところに友のために命を捨てる最大の愛、神の愛があるのです。

 

その最大の愛を、自分達の良いように理屈に変えたのが、今の宗教、今のキリスト教です。

 

偽の羊飼いがいるのです。

 

偽の羊飼いは、自分も神の国に入らない、神の国に入ろうとする者もいれないほどです。

 

偽の羊飼いは、イエス様が十字架で自分達の罪の身代わりになられた、それを贖いとして、救われたとしているのです。

 

そうではなく、イエス様は、天の父の身代わりです。天の父が、罪に滅びるわたしたちをあわれんで、罪もないのにへりくだってわたしたちをなだめるために、イエス様を贖いとしてわたしたちに贈ってくださったのです。

 

そのイエス様を素直に受け取ることがイエス様の飼われている羊です。

 

羊のために命を捨てられた愛を受け入れる事です。

 

イエス様は、命懸けなのです。

 

イエス様ほどの愛を持つ方はこの天地には他にいないのです。

 

イエス様に惚れ参って、イエス様について行ってください。

 

救うか救われるかは、イエス様が決められることです。

 

偽の羊飼いは、羊の門を通らないのです。

 

イエス様の判断より、自分達の判断で神の国に入ろうとしているのです。

 

神の国の誠の権威はイエス様にあるのです。

 

誰でも、イエス様の声に聞き従う事です。

 

間違って、盗人や強盗についていかないことです。

 

もしついていくなら、イエス様の言葉を聞いていない証拠なのです、自己責任になるのです。

 

あなた様に平安がありますように。

 

イエス様の御国がきますように。

 

最後までお読み頂きありがとうございました。