愛は神から出ているのですから神に祈って愛させて戴くようにすると弥栄えるのです、

祈らずに自分だけで行うから、元を絶つから我よしに、自分愛になるのです、

自分を拝むのは肉愛ではないのです、

神と人の和は神よりなさるものなのです、

本質的には人間から神に働きかけるものではないのです、

働きかける力は神から出るのですから、人間から和し奉らねばならないのです

信じ合う一人が出来たら一つの世界を得た事です、

一つ得たら二つになった事です、

祈りを忘れる事は神を忘れる事、神から遠ざかる事です、

祈りを忘れてはいけません

安全な道を通ってください、

安全な教えの所に集まってください

【日月神示 黄金の巻】

 

イエスが洗礼者ヨハネよりも多く弟子を集めてバプテスマを授けておられるという事をパリサイ人達が聞き、それをイエスが知られた時に(水のバプテスマをお授けになっていたのは弟子達であった)ユダヤを去って次にガリラヤへ行かれた、しかしイエスはサマリヤを通過しなければならなかった、そこでイエスはサマリヤのスカルという町においでになった、この町はヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあった、そこにはヤコブの井戸があった、イエスは旅の疲れを感じてそのままこの井戸の側に座っておられた、時は昼の十二時頃であった、一人のサマリヤの女が水を汲みに来たのでイエスはこの女に、水を飲ませて下さいと言われた、弟子達は食べ物を買いに町に行っていたのである、するとサマリヤの女はイエスに言った、あなたはユダヤ人でありながらどうしてサマリヤの女のわたしに水を飲ませてくれとおっしゃるのですか、これはユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである、イエスは答えて言われた、もしあなたが神の賜物の事を知りまた水を飲ませてくれと言った者が誰であるか知っていたならばあなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらった事であろう、女はイエスに言った、主よあなたは水を汲む物をお持ちにならず、その上に井戸は深いのです、その生ける水をどこから手に入れるのですか、あなたはこの井戸を下さったわたし達の父であるヤコブよりも偉い方なのですか、ヤコブ自身も飲みその子孫もその家畜もこの井戸から飲んだのですが、イエスは女に答えて言われた、この水を飲む者は誰でもまた渇くであろう、しかしわたしが与える水を飲む者はいつまでも渇く事がないばかりかわたしが与える水はその人の中で泉となり永遠の命に至る水が沸き上がるであろう、女はイエスに言った、主よわたしが渇く事がなくまたここに汲みに来なくても良いようにその水をわたしに下さい、イエスは女に言われた、あなたの夫を呼びに行ってここに連れて来なさい、女は答えて言った、わたしには今は夫はありません、イエスは女に言われた、夫がないと言ったのはもっともだ、あなたには五人の夫があったが今のはあなたの夫ではない、あなたの言葉の通りである、女はイエスに言った、主よわたしはあなたを預言者と見ます、わたし達の先祖はこの山で礼拝をしたのですがあなた方ユダヤ人は礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています、イエスは女に言われた、女よわたしの言う事を信じなさい、あなた方がこの山でもまたエルサレムでもない所で父を礼拝する時が来る、あなた方は自分の知らないものを拝んでいるがわたし達は知っている方を礼拝している、救いはユダヤ人から来るからである、しかし誠の礼拝をする者達が霊と誠とをもって父を礼拝する時が来る、そうだ今すでに来ている、父はこのような礼拝をする者達を求めておられるからである、神は霊であるから礼拝をする者も霊と誠とをもって礼拝すべきである、女はイエスに言った、わたしはキリストと呼ばれるメシヤが来られる事を知っています、その方が来られたならばわたし達に一切の事を知らせて下さるでしょう、イエスは女に言われた、あなたと話をしているこのわたしがメシアである、

 

 

 

 

ヨハネによる福音書 第4章①の反芻

 

この世でも、渇水は、死活問題です。

 

渇水が起ると、作物は育たず、飢饉も起こります。

 

人は、水がなければ生きてはいけません。

 

この世の水も、神の恵みであり、その恩恵を受けているのに、人はほとんど誠の神様を誰か知らないのです。

 

イエス様は、神様であるのに、人となられて、この世で疲れも渇きも痛みも苦しみも味わわれたのです。

 

そして、飢え渇く女がご自分の元に来るのを待っておられたのです。

 

わたしたちも、サマリアの女と同じです。

 

イエス様は、飢え渇いて、自分の元に来る者を待っておられるのです。

 

イエス様は、素直に水を汲みに来た女に水を飲ませて下さいと、へりくだって神様の方から頼まれているのです。

 

へりくだって、賜物を与えて人をなだめることは、天の父のなさることです。

 

イエス様も、天の父のみ心を行われているのです。

 

わたしたちは、イエス様が誰かも知らず、イエス様が水を欲している事も知らず、水の恩恵を受けていたのです。

 

イエス様は、天でなされることを、地でもなさるのです。

 

いよいよ、神様の賜物である、聖霊がくだる時が来たのです。

 

イエス様から聖霊が派遣される時が来ているのです。

 

イエス様にわたしたちの方からへりくだって、生ける水、聖霊をくださいとお願いすることです。

 

こちらの方から、愛させてくださいと願うことです。

 

まことの礼拝は、イエス様を信じてイエス様に祈ることです。

 

イエス様に祈ることは、天の父に祈ることと同じですから、安全な礼拝なのです。

 

誰でも、安全な道、安全な教えのところに集まり、祈ることです。

 

救いの事は、直接、メシヤに聞かなければなりません。

 

律法学者、パリサイ人、サドカイ人などの人から聞いても、天のことも、賜物のことも誰も知らないのです。

 

知らないことを、人は平気で伝えて来るので、よくよく気を付けることです。

 

あなた様に平安がありますように。

 

イエス様の御国が来ますように。

 

最後までお読み頂きありがとうございました。