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終りまで イエス様へと 任せて安心

終りとは 神の御国の 始まりの時

富士鳴門 カイ江戸尾張 片し時待つ

イエス拝み 任せてる時 すでに楽園

楽園は すべて楽行く なるとの仕組み

渦海に 入る人々 神の息受け

神の息 入る人々 主に任せきる

はしためが 神と交わり 慈悲に救われ

棕櫚扇ぎ 再臨を今 身内に迎え

 

ヨハネによる福音書 第12

 

過ぎ越の祭の六日前にイエスはベタニヤに行かれた、そこはイエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である、イエスのためにそこで夕食の用意がされ、姉のマルタは給仕をしていた、イエスと一緒に食卓についていたものにはラザロも加わっていた、その時にマリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持って来て、イエスの足に塗り自分の髪の毛でそれを拭いた、すると、香油の香りが家に充満した、弟子の一人でイエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人達に施さなかったのか」ユダがこう言ったのは、貧しい人達に対する思いやりがあったからではなく、ユダは盗人であり財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった、イエスは言われた「マリヤのするままにさせておきなさい、わたしの葬りの日のために香油を保管しておいたのだから、貧しい人達はいつもあなた方と共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」大勢のユダヤ人達がラザロの家にイエスのおられるのを知って、押し寄せて来た、それはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロをみるためでもあった、そこで祭司長達はラザロも殺そうと相談した、それは、ラザロのよみがえりで多くのユダヤ人が彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである

翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて棕櫚(しゅろ)の枝を手にとり迎えに出て行った、そして叫んだ「ホサナ、主の御名によって来る者に祝福あれ、イスラエルの王に

イエスはロバの子を見つけてその上に乗られた、それは「シオンの娘よ恐れるな、見よあなたの王がロバの子に乗っておいでになる」と書いてある通りであった、弟子達は初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時にこのことがイエスについて書かれてあり、またその通りに、人々がイエスに対してしたのだということを思い起こした、また、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせた時にイエスと一緒にいた群衆がその証明をした、群衆がイエスを迎えに出たのは、イエスがこのような奇跡を行われたことを聞いていたからである、そこで、パリサイ人達が互いに言った「何をしても無駄だった、世をあげてイエスの後を追って行ったではないか」

祭で礼拝するために上って来た人々の中に数人のギリシャ人がいた、彼らはガリラヤのベツサイダ出身であるピリポの所に来て「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ、ピリポはアンデレの所に行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスの元に行って伝えた、するとイエスは答えて言われた「人の子が栄光を受ける時が来た、よくよくあなた方に言っておく、一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである、しかしもし死んだなら豊に実を結ぶようになる、自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう、もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい、そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまたおるであろう、もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう、今わたしは心が騒いでいる、わたしは何と言おうか、父よこの時からわたしをお救い下さい、しかし、わたしはこのためにこの時に至ったのです、父よみ名があがめられますように」すると天から声があった「わたしはすでに栄光をあらわした、そして更にそれを現わすであろう」すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて「雷がなったのだ」と言い他の人達は「御使いが彼に話しかけたのだ」と言った、イエスは答えて言われた「この声があったのは、わたしのためではなくあなた方のためである、今はこの世が裁かれる時である、今こそこの世の君は追い出されるであろう、そしてわたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしの所に引き寄せるであろう」イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかをお示しになったのである、すると群衆はイエスに向って言った「わたし達は律法によって、キリストはいつまでも生きておいでになるのだと聞いていました、それなのに、どうして人の子は上げられねばならないと言われるのですが、その人の子とは誰のことですか」そこでイエスは彼らに言われた「もうしばらくの間、光はあなた方と一緒にここにある、光がある間に歩いて、闇に追いつかれないようにしなさい、闇の中を歩く者は自分がどこへ行くのかわかっていない、光のある間に、光の子となるために光を信じなさい」イエスは立ち去って群衆から身をお隠しになった、このように多くの奇跡(証明)を彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった、それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの説くところを誰が信じたでしょうか、また、主のみ腕は誰に示されたでしょうか」こういうわけで、彼らは信じることが出来なかった、イザヤはまたこうも言った「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった、それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである、しかし役人達の中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人を考慮して告白はしなかった、会堂から追い出されるのを恐れていたのである、彼らは神の誉れよりも、人の誉れを好んだからである

イエスは大声で言われた「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしを派遣された方を信じるのであり、また、わたしを見る者は、わたしを派遣された方を見るのである、わたしは光としてこの世に来た、それは、わたしを信じる者が闇の中にいないようになるためである、たとえわたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人を裁かない、わたしが来たのはこの世を裁くためではなくこの世を救うためである、わたしを捨ててわたしの言葉を受けいれない人には、その人を裁くものがある、わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人を裁くであろう、わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身がが、わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである、わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている、それゆえにわたしが語っていることはわたしの父がわたしに仰せになったことをそのまま語っているのである

 

ヨハネによる福音書 第12章の反芻

 

わたしたちには、イエス様の御言を聞いて、奥義を悟る使命があります。

奥の義なので、神の義と奥義は、同じ意味とも捉えられます。

日月神示では、「奥山に祀って」「奥山に参って」とあります。「今までの逃れ場所はヤマであったのですが、今度はヤマに逃げても駄目なのです、神の御旨の中に入ってください、山に移って海に入れと申しているのは今度のことです」

奥山は、神の御旨です。富士のご用は、奥山に祀ることです。海は、渦海のことで、なるとの御用、イエス様に任せきることです。

父の御心は、イエス様を信じる人が、一人も滅びず永遠の命に入って、その者たちが、イエス様に任せきることです。

天の理(みち)が世に出る時は来ました。

今度は、イエス様から聞いて出直しです。

はじめにイエス様から聞かなくてはなりません。

今までは、パウロの言う事が優先されて、人の知や学からの偽の福音が広まっていました。

これからは、イエス様の御言を聞いて、イエス様に人が従うのです。身を捧げて全身全霊でイエス様を愛するしかありません。

イエス様を拝んでいれば、それで良いのです。

イエス様の福音が、まことの福音です。賜物であるイエス様を素直に受けいれることです。

いままでは、人が一人で生んだ偽の教えでした。

今度は、イエス様から聞いた人が、神の愛、神の知を知り、伝えるまことの福音でなければなりません。

 

ベタニヤのマリヤは、高価なナルドの香油を葬りの日のためにとっておいたのです。

とっておきの愛を示したのです。油は、最高の愛です、イエス様のために命、身を捧げて、任せきる愛です。永遠の弥栄えの愛です。

たった一つ、無くてはならないことは、イエス様の御言に聞き入ることです。

マリヤは、イエス様の葬りの日のことを知り、イエス様のなさることを受け入れあわれみ、自分のできる限りのことをして愛を示しました。

マリヤは、福音とともに語り継がれるほどの行いを現わしました。

イエス様は、愛する者に、ご自分を現わされます。

愛さない者には、身をお隠しになります。

マリヤのようによい行いができればいいのですが、何度も失敗して何度も悔い改めながらでも、塵や灰になって身を低くしてイエス様のために手伝いをすることが大事です。わたしたちは、手は手の役、足は足の役、頭は頭の役と、それぞれ役目があります。

神様の言うことを聞いて何もしないのは好まれません。そういう人は、灰となって肥料にもならず、役に立たないからです。沈香でも屁でも、いい香りでも臭くても、何もしないよりはましです。

 

人の教えは、偽善の愛であり、役に立たないどころか、穴に落ちてしまいます。

 

イエス様を心に受け入れ、神の子となって三十倍、六十倍、百倍の実をつける者となること。

奥義は、永遠の命であり、イエス様そのものです。

良い麦の種は、イエス様が蒔いたということは、神の子を選んだのは、イエス様です。

永遠の命は、父を知りイエス様を知ることです。知るとは、交わること、交流です。

イエス様と父は、御一体です。つまり父子であり、不死です。わたしたちが、イエス様と一体となることも、同じ道理です。真理です。それが、永遠の弥栄であり喜びです。

イエス様を受けいれることが、永遠の命です。

イエス様は、見えません。神の義は、見えないイエス様と交流することです。

わたしたちは、イエス様のことを知ることが許されていたのに、罪を犯したので、その交流ができなくなっていました。奴隷期間が解かれ、岩戸が開き、再び、神との交流を許されたのが、イエス様との交流です。わたしたちは、イエス様の奥深くあるものに惹かれてもっと知りたくなるようにできています。エバが、アダムのために創られたように、その前にわたしたちはイエス様のために創られたからです。イエス様が、まことの夫です。

 

イエス様を歓迎するのに使った棕櫚は、日本人にも馴染みがあります。

富士山本宮浅間神社の神紋は、棕櫚だそうです。

救い主、平和の君であるイエス様をお迎えするのは、わたしたちです。

不死であり、真理は、イエス様です。

イエス様を信じたら、あとは任せきること。

人には分からない一厘の仕組みなので、信じるしかありません。

イエス様、どうぞお救い下さい、イエス様に栄光あれ、イエス様に祝福あれ。

 

イエス様が命を捨てるのは、すべての人に命を与えるためです。

一粒の良い麦が、地に落ちて死に永遠の命をすべての人に与えることができます。

求める者には、必ず聖霊が与えられます。

自分の命を捨てて、イエス様の命を愛する人が、永遠の命に至ります。

イエス様が悪神や罪神ではなく、人民の罪を背負ってくれる救い主の大神様だと分からなければ、わたしたちの心は開きません。

罪を負っている人民であるなら、分かることですが、わたしたちが心を開かなければ、受けいれは難しいです。

 

自分を正しいとするなら、耳で聞かず、目で見ず、心で悟れません。

言う事を聞かないということが、人の癖です。今度は、それを改めることです。

 

イエス様に罪を着せて、十字架を生贄とか身代わりだとするのが、今までの教えです。

イエス様を自分の都合よく十字架に引き渡すのは、自分の命を愛しているからです。

盗人は、自分の都合優先です。ごまかしの愛は利きません。役に立たないのです。

 

イエス様と交流し、御心である永遠の命に融け入ること。

一足す一は二とか、白と黒を混ぜたら灰色とかいう人の常識は、役に立たない、意味がないのです。油と水や火と水は、本来は混ざらないものです。本来は、罪を犯したわたし達であり、神様のとの交流弥栄えは、一旦途切れて、もう交流することはできない身分なのに、イエス様によって交ざらないものが交じるという、奇跡、大歓喜が起きるのです。とてもすごい喜びです、イエス様、万歳です、イエス様を讃えるしかないのです。死んだ者が、永遠の命を得るという、百八十度のひっくり返りが起きるのです。

わたしたちには計り知れない奇跡の仕組みがあるのです。そこは、神の領域なので、任せるしかありません。

父とイエス様は、父子(不死、富士)で、イエス様とわたし達は夫婦(二二、富士)となって、永遠に弥栄えしていくのです。