辰の年 富士と鳴門の 仕組みが分かる

辰の年 神示読んだ者 光出てくる

型を出す 御代の辰年 今年の辰に

二千年の イエス御言を この耳に聞く

イエス持つ 永遠の命が まことの命

大神業 永遠の命を  お与えになる

毎日の 神業奉仕 めぐりがとれる

最後まで 悔いて改め 神業奉仕

命がけ 天の咎負い 天から来られ

 

ヨハネによる福音書 第5

 

ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた、エルサレムにある羊の門の近くにベテスダと呼ばれる池があった、そこには五つの廊があった、その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者など、たくさんの人が身体を横たえていた、彼らは水の動くのを待っていたのである、その理由は時々主の御使いがこの池に降りて来て水を動かすことがあるが、水が動いた時にまっ先に池に入る者は、どんな病気にかかっていても癒されたからである、さて、そこに三十八年間も病気に悩んでいる人がいた、イエスはその人が横になっているのを見て、また長い間苦しんでいたのを知って、その人に「直りたいのか」と言われた、この病人はイエスに答えた「主よ、水が動く時にわたしを池の中に入れてくれる人がいません、わたしが入りかけると他の人が先に降りて行くのです」イエスは彼に言われた「起きて、あなたの床を取りあげて歩きなさい」すると、この人はすぐに癒され、床を取りあげて歩いて行った、その日は安息日であった、そこでユダヤ人達は、その癒された人に言った「今日は安息日だから床を取りあげるのは、よろしくない」彼は答えた「わたしを治して下さった方が、床を取りあげて歩けとわたしに言われました」彼らは尋ねた「取りあげて歩けと言った人は誰か」しかし、この癒された人は、それが誰であるか知らなかった、群衆がその場にいたので、イエスはそっと出て行かれたからである、その後イエスは宮で癒された人に出会ったので、彼に言われた「みてみなさい、あなたは良くなった、もう罪を犯してはいけない、何かもっと悪いことがあなたの身に起るかも知れないから」彼は出て行って、自分を癒したのはイエスであったとユダヤ人達に告げた、そのためユダヤ人達は、安息日にこのようなことをしたと言ってイエスを責めた、そこで、イエスは彼らに答えられた「わたしの父は今に至るまで働いておられる、わたしも働くのである」このためにユダヤ人達は、ますますイエスを殺そうと計るようになった、それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである

イエスは彼らに答えて言われた「よくよくあなた方に言っておく、子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることが出来ない、父のなさることであればすべて、子もその通りにするのである、なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることはすべて子にお示しになるからである、そして、それよりもなお大きな業をお示しになるであろう、あなた方が、それによって不思議に思うためである、すなわち、父が死人を起して命をお与えになるように、子もまたその心に叶う人々に命を与えるであろう、父は誰をも裁かない、裁きのことは全て子にゆだねられたからである、それは、全ての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである、子を敬わない者は子を派遣された父をも敬わない、よくよくあなた方に言っておく、わたしの言葉を聞いて、わたしを派遣された方を信じる者は永遠の命を受け、また裁かれることがなく、死から命に移っているのである、よくよくあなた方に言っておく、死んだ人達が、神の子の声を聞く時が来る、今すでに来ている、そして聞く人は生きるであろう、それは、父がご自分の中に生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分の中に生命を持つことをお許しになったからである、そして子は人の子であるから、子に裁きを行う権威をお与えになった、このことを驚くには及ばない、墓の中にいる者達がみな神の子の声を聞き、善を行った人々は生命を受けるためによみがえり、悪を行った人々は裁きを受けるためによみがえって、それぞれ墓から出て来る時が来るであろう、わたしは、自分からは何事もすることが出来ない、ただ聞くままに裁くのである、そして、わたしのこの裁きは正しい、それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしを派遣された方のみ旨を求めているからである、もしわたしが自分自身について証明をするならば、わたしの証明は真実ではない、わたしについて証明をする方は他にあり、そして、その人がする証明が真実であることをわたしは知っている、あなた方はヨハネの元へ人を派遣したが、その時に彼は真理について証言をした、わたしは人から証言を受けないが、このことを言うのは、あなた方が救われるためである、ヨハネは燃えて輝く灯りであった、あなた方はしばらくの間その光を喜び楽しもうとした、しかし、わたしには、ヨハネの証明よりも、もっと力ある証明がある、父がわたしに成就させようとしてお与えになった奇跡、すなわち、今わたしがしているこの奇跡が、父のわたしを派遣されたことを証明している、また、わたしを派遣された父も、ご自分でわたしについて証明をされた、あなた方はまだそのみ声を聞いたこともなく、そのみ姿を見たこともない、また、神が派遣された者を信じないから、神の御言はあなた方の内心にとどまっていない、あなた方は聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについて証明をするものである、しかも、あなた方は命を得るためにわたしの元に来ようともしない、わたしは人からの誉れを受けることはしない、しかし、あなた方の中には神を愛する愛がないことを知っている、わたしは父の名によって来たのに、あなた方はわたしを受け入れない、もし、他の人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう、互いに誉を受けながらただ一人の神からの誉れを求めようとしないあなた方は、どうして信じることができようか、わたしがあなた方のことを父に訴えると考えてはいけない、あなた方を訴える者は、あなた方が頼みとしているモーゼその人である、もしあなた方がモーゼを信じたならば、わたしをも信じたであろう、モーゼは、わたしについて書いたのである、しかし、モーゼの書いた聖書を信じないならばどうしてわたしの言葉を信じるだろうか

 

 

ヨハネによる福音書 第5章の反芻

 

イエス様のなさることは、すべて父のなさったことです。

イエス様は、神と等しいので、神様です。

誰もさばかないのです。

誰もさばかないのが、まことの神様です。

許ししかないのが、まことの神様です。

 

さばきとは、ゆるすためのさばきです。

イエス様のさばきがなければ、誰も救われません。

 

人の言うさばきは、善悪の知識のさばきです。いけにえのさばき、犠牲をともなうさばきです。

イエス様を十字架にかけて、自分たちが救われたとする偽のさばきによる、偽の救いです。

神様のさばきは、あわれみのさばきです。犠牲のない、イエス様も人もどちらも救われるさばきです。

 

例えば、ベテスダの水で、どんなに罪を流そうとしても、流そうとしても、それだけで罪が消えることはありません。

人は長年の罪を自分自身では消すこともなくすこともできません。

それは、三十八年苦しむ者と同じです。

あと二年で罪からの解放です。

その二年は、二千年でもあります。

イエス様の御言を聞けば、罪から解放されるのです。

 

イエス様を信じ、悔い改めて善い方向に導かれること。

イエス様が誰だか知らなくても、素直に、その命令にしたがえば、その通りになります。

そして、最後までイエス様に仕えることです。

イエス様から離れてしまったら、もっと悪いことが起るのです。

最後まで耐え忍んで仕えるという魂の試練に負けないこと。

 

わたしたちの病気は、本当の気を頂いていないからです。

気とは、木でもあります。

病気とは、善悪の知識です。それはとても(にが)いのです。

それを吐き出すことです。

毒を吐き出すことです。

偽ユダヤ人は、イエス様を敬わないで、善悪でイエス様を見るので、イエス様を妬むのです。

イエス様を敬う人は、イエス様にかわりにさばいてもらえます。だから、自分は楽になるのです。

「イエス様 わたしのかわりに さばいてください。」

 

イエス様を見れば、父のなさったことがわかります。

イエス様を信じるものは救われる、それは、天の父も同じです。

王の王はイエス様です。主の主はイエス様です。

」「」の、「」「」の箇所が、天の父です。

だから、天の父はイエス様です。

天の父は永遠の命の木をたべておられます。

だれもさばかず、さばきをイエス様に任せられました。

そこに、善悪はありません。悪を抱き参らせる、さばかないさばきがあるのみです。

イエス様は、人の子だから御子にさばきを持つことを許されました。

天の父と同様、人とは、イエス様を愛する者のことを言います。

天で、天の父が、御子を愛するように、地においては、人が、御子を愛することがみ心です。

善を行うもの、悪を行うものどちらも救うのがイエス様です。

どちらもよみがえらせるのです。ただ、善をおこなうものがこの世にいるでしょうか。

悪をおこなう者ばかりです。

だから、洗礼のヨハネのあかしは正しいのです。

わたしたちは、まむしの子、悪をおこなうものです。「悔い改めよ」です。

水の洗礼、罪の告白することです。

それからは、イエス様の神力が必要です。もっと力あるわざをイエス様はなさいます。ヨハネもあかししました、「彼を信じる者は救われる」のです。

イエス様は、火の洗礼、霊の洗礼です。

イエス様の御言で清められます。

日々、御言を求めること。御言を心にとどめること。

イエス様の元に来た者は、人の誉れではなく、イエス様の誉れを求めます。

 

イエス様は、100%許すさばきです。

最期の審判は、イエス様に、かわりにさばいてもらうことです。

イエス様にさばきをまかせるのです。

モーゼも、モーゼの言葉を信じない者を、イエス様にかわりにさばいてもらうのです。

審判は、その日その時さばかれているので、今も審判も同じ結果です。

イエス様を信じる者は救われるという結果です。

イエス様の言葉を聞く者は、生きます。

聞き従わなければならないのは、主の主であるイエス様です。

イエス様は、恐れ多いのです。

わたしたちは、まだまだ頭が高いのです。

イエス様を高くすること。

奴隷が解放されるには、イエス様の御言葉を聞く事