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ヨハネによる福音書 第19章の反芻

 

ユダヤ人達は、イエス様が神様であること、ユダヤ人達の王であることが最後まで信じることが出来ませんでした。

イエス様は、父の差し出されたいけにえとして、天からこの死の世界に来られました。

故郷や自分の民はイエス様は敬われないこと、家造りらが捨てた石、苦しめられて殺される、それらの言葉は、まことの神である父の深い悲しみです。イエス様が敬われないことは、天では深い嘆きです。

何度も何度もどんなにかイエス様の加護に集めようとしても、かたくなにイエス様を受け入れなかったこと、そのあわれみと愛を受け入れなかったことは、罪です。でも、イエス様は言い返されず、最後まであわれまれ、また忠実に父の言葉を守られました。

イエス様には罪はありません。

イエス様の国である、神の国の王はイエス様です。

イエス様に十字架を負わせ、罪を着せたことは、大きな罪です。

ピラトは、恐れ、イエス様に罪は見い出せないと、許そうと努めましたが、群衆の言葉を聞いてしまいました。

わたし達が従うのは、イエス様でなくてはなりません。イエス様の言葉に従わなければ、人は間違うのです。

ユダヤ人は律法があると言いましたが、その律法を行う者は、一人もいないのです、イエス様を殺していることにも気づかない、イエス様の立場を奪った事にも気づかない、盲人で盗人です。

ピラトは、イエス様を許す権威と十字架につける権威があると言いましたが、イエス様は、上から賜らなければイエス様に対してなんの権威もない、だからイエス様をピラトに引き渡した者の罪はもっと大きいと言われました。十字架に架けることは、誰にも何の権威を与えられていないことであり、人が犯した罪であることが、この言葉で分かります。そのもっと大きい罪が、十字架に引き渡したことです。わたし達の先祖もわたし達も、イエス様を十字架に架けて罪を着せたのです。イエス様は自ら十字架を背負ってされこうべという場所に行かれました。イエス様にない罪を不当に負わせ、間違った証言でまことの神様に侮辱をし、ないがしろにしたこと、本当にお詫びです。敬われないイエス様の苦しみは死ぬほどです。信仰のないことは、イエス様にとって深い嘆きです。

御言を生かした人が、生かされます。

全ての人は、悔い改めが必要です。イエス様に、十字架に架けて罪を着せたことを皆でお詫びしましょう。

全て許す権威はイエス様にあります。

 

ユダヤ人は、最後までイエス様が天から来られたことが分からず、カイザルの味方になって、地から出たことを証明しました。イエス様が神だと言えば、自分を神とする者を罪とした、イエス様が王だと言えば、カイザルに背く者とした、その裁きは自分に返ってきます。自分が神や王になろうとした、その高慢さが主の立場をなくしたのです。

わたし達の主は、わたし達の中に立っておられます。イエス様中心として、イエス様に従いましょう。

イエス様は、あわれみで許されます。何度もお詫びすれば何度も許されるのです。裁きがないのです。イエス様を敬う人には、悔い改めればどこまでもお許しになるのです。

イエス様を敬わない人は、悔い改めないので、癒されることがありません。

ユダヤ人はまことの石を大事にしないで、敷石という場所で不当な裁判を行いました。

敷石は平らです、イエス様を崇め、御言を頂けば、基礎石を積み上げて、頑丈な家造りができたのですが、ユダヤ人らは何も積み上げることをせず、イエス様のために働くことをしませんでした。

 

イエス様は十字架につけられて、上着をとられ、下着をも取られ、裸にされました。父の裸を見る者は罪です。イエス様を裸にしたことは、父をも裸にしたことです。イエス様の衣は特別です。み衣のふさに触れるだけで癒されると信じた人は癒されるのです。上着は四つに分かれた福音です。下着は、イエス様の霊の衣です。この時、御言もイエス様の霊の衣もないがしろにし、イエス様を汚したのです。聖霊を汚すことはなりません。イエス様を敬わない者は、父も敬わないと同じです

イエス様を十字架に架けたことが罪なのに、イエス様の十字架を信じると間違った教えを広めていたり、信じていたらアダムとエバの時と同じ過ちを犯しているのです。早くきづいた人から、お詫びしましょう。十字架は、善悪の知識の木と同じで、食べたら、きっと死にます。

 

愛弟子は、ヨハネです。マナを食べる弟子であり、真名であるイエス様の弟子です。イエス様の母は、イエス様が愛されていたヨハネに託されました。ヨハネは、イエス様のみ旨近くに座り、いつもみ旨を求め、また知っていました。ヨハネが愛するので、イエス様も愛されていました。

イエス様が、母マリヤをヨハネの母だと言えば、その通りなのです。

なんでも、イエス様の言うことは聞くことです。

 

イエス様は万事が終わったことを知られ、「わたしは渇く」と言われました。渇いたイエス様に飲ませるワインが、酸っぱいものでは失礼です。敬わない者のワインは熟していないのです。

イエス様を信じて受け入れれば、自然に熟した最高のワインになります。自分だけでは、最高のワインはつくれません。

イエス様の骨は折られませんでした。イエス様の死は、骨折り損ではありません。イエス様が去ることは聖霊を与えられ、わたし達には益になるからです。でも、イエス様を十字架で刺し通した者は、御言も水も流れ出てその者にとどまりません。イエス様の死は、最後まで忍耐され、神様の栄光を現されました。イエス様はよみがえられる、その言葉は真実です。イエス様の死は、栄光の死に方で、御言の通りなさったことが、証明です。でも、十字架に架けたことは、人が犯した罪です。十字架に架けることは、イエス様を敬っていないことであり、父のみ旨ではありません。だから、自分が刺し通したものを見る者は、地の者です。イエス様の栄光を求める者は、聖霊を受けます。

 

イエス様の死体は、ひそかに弟子になったアリマタヤのヨセフとユダヤ人の指導者ニコデモが、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を入れて亜麻布で巻いて、園にあった、まだ誰も葬られたことのない新しい墓に納められました。

預言者を墓に納めて、墓を立て、敬っているように見せても、自分も殺したのと同じです

先祖は預言者達を殺してきたが、自分達は正しいことをしているということにはなりません。

先祖もパリサイ人もユダヤ人もわたし達も、同じ罪人です

全ての人達は、イエス様を十字架に架けたことをお詫びしなければなりません