「美しい」ということ | そりゃ、それでいっか…。

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借金返済しながらの私の日常成長日記

先日、

私がフルートを習っているお教室で

先生方によるミニコンサートが行われた。

 

 

フルートの先生、3名と

ピアノの先生、1名での

アンサンブルコンサート。

 

 

音が重なり、響き合う時、

私の内側から

何かが込み上げて来て

涙が溢れそうになる、あの感覚。

 

 

私は、いつも、

この感覚が何なのかわからないけど、

 

きっと、自分にとって

とても大切な何かを

体が教えてくれているんだ、と、

いつも感じていたりする。

 

 

 

先生の演奏をじっくり聴くっていうこと、

そして、演奏している姿を

ゆっくりと眺めて見られるっていうことは、

 

レッスン中、あまりないので、

とても貴重でもあり、

新たな発見がたくさんあって面白いんだ。

 

 

 

改めて気づいたことだけど、

私の先生の演奏する指の繊細な動き、

演奏する姿そのもの、

そして、奏でられる音は、

 

とても洗練された 美しいものだ

 

ということが、わかった。

 

 

 

今日、その事を

レッスンでお会いした時に

先生にお伝えしたら

 

 

「無駄が省かれていくと、結局、物事は、美しくなっていくんですよね」

 

 

と、先生がおっしゃっていた。

 

 

 

「無駄がない」というのは、

その時にその物事の最大限が発揮できる状態で

そうなると、自然とそのものが、美しく映る

ということだと。

 

 

 

あ~、あ~そうだよな。

そうそう。そうだ。

 

 

物事が最適、最善である時は、

皆、それ、そのものが美しいんだ。

 

 

 

そして、

その美しさが醸し出されるには、

 

最適、最善、質の良さ みたいなものに

出会っておく必要がある。

 

 

さらに、

それらの要素を

身につけるべく、体を動かして

知る、わかる、必要がある。

 

 

しかも、

物事をはじめる

一番最初に、徹底的にだ。

 

 

 

先生は、

 

 

「一度ついた悪い癖を直す方が

よっぽど時間がかかり、苦労するものはない」

 

 

 

とも、おっしゃっていた。

 

 

 

何事も、

はじめが肝心なんだ。

 

 

 

 

しかし、

「美しい」という物事に

触れる機会に恵まれるのも

 

 

「美しい物事に出会いたい」

 

という、欲があるからこそなのかもしれない。

 

 

 

私は、いつからなのか

この 「美しい物事に出会いたい」

という欲があったからこそ

 

 

今、一緒に暮らす猫の月にも

出会っているのかもしれない。

 

 

彼の持つ、すべてが

とても美しい。

 

 

写真に写る

彼の小さな手足でさえも

完璧で無駄がなく、本当に美しいんだ。

 

 

 

毎日、美しいモノに触れられる幸せ。

ありがたい。