今日は、一郎君の不運というか、彼自身の問題ではなく、彼の両親が異常だった点に触れてみます。

彼の両親、他人からは、割と長身で目が大きく日本人離れした風貌ながら物静かで真面目そうな父親と、絶世の美女と言われた祖母には負けるが、普通の基準で言えば、割と美人でおしゃれな母親のカップルで、同級生たちからは、理想の両親と見られていました。

しかし、後に一郎君が、これならおかしくなったのも仕方ないかと納得したほど、両親とも波乱の生涯を送ってきていました。
まず、父親の人生から触れていきましょう。

一郎君の父親、結婚前は辻村常和氏だったのですが、外交官だった父辻村常美氏が、アメリカに赴任中に、現地在住の日本人留美さんとの間に生まれており、3歳の時に常和氏に帰国の命令が下ると、留美さんは、アメリカ暮らしが長かったこともあってか、帰国を拒否して出奔したため、仕方なく父と子だけで帰国することになりました。
ですから、常和氏、実の母親の記憶がありませんでした。
常美氏、亡父も外交官で、日清戦争時に北京で活躍した有名な人物でしたから、周囲は常美氏が日本の外交官で、子連れの独身ではみっともないし、業務に支障が出るとの理由をつけ、帰国後直ぐに彼を再婚さたのです。
その時、常美氏のアメリカでの婚姻歴はおろか、常和氏の戸籍までもが無かったのをいいことに、また、継母となった静子さんは、誰もが知る藩閥の某名家の娘だったこともあってか、その戸籍に傷がつくとの配慮もあり、常美氏と静子さんは初婚で、常和氏については、戸籍上は、両親の結婚直後に生まれたことにしてしまったのです。
少々無理がありましたし、当時はそれはそれでスキャンダラスなことだったのですが、周囲は事情を知っていますから、そのように戸籍を作ったのです。
つまり、日本の戸籍上は、常和氏は実年齢よりも3歳若かったのです。
今なら小学校入学時に問題になっていると思いますが、当時はおおらかだったのか実年齢と戸籍の乖離は放置され、戦後それが常和氏の人生に大きな影を落とすことになりました。

静子さんは、名家の令嬢ながら、家事育児に優れ、よく気が付くとてもいい人だったため、結婚3年後に実の子で常夫さんの弟となる久雄氏が生まれた後も、継子の常和氏のことも分け隔てなく育ててくれました。
しかし、常和氏が高校生の時に夫の常美氏が亡くなると、実家に頼ることは良しとしなかった静子さん一家は窮乏することとなりました。
その中で、常和氏は勉強熱心な秀才だったため、苦学生として大学に進学しました。
ところが彼は、大学に入学した2か月後、父譲りの英語とドイツ語の会話能力を買われ、学徒動員より1年半早く、かつ全く違う形で軍に徴用されることになりました。
任務を達成することができたら国が彼の学費全てを負担したうえ、高額の報酬金も支給するとの密約を提示されたために苦学生であった彼は半ば喜んで同意したのですが、何故彼が徴用されることになったのか、どんな作戦に従事することになるのか等の事情は不明のままになりました。
常和氏が徴用に同意するや否や、彼は、通学していた神戸商船大学から呉の海軍兵学校に編入されて特別に1か月訓練を受けることになりました。
常和氏、水泳が達者で高校生の時には水球の選手であったことが幸いし、シゴキとしか言いようのない訓練続きでしたが、優秀な成績でその特別課程を終えることができました。
1か月の訓練を終えると、呉の近くの漁港から漁船に乗せられて出航し、瀬戸内海の海上で、見たことも無い大型潜水艦に移乗させられ、目的地も任務も明かされぬまま出航することになりました。
流石にどこに行くのかぐらいは知りたいと乗組員に聞いてみましたが、彼らも、任務も目的地も知らされておらず、無事目的地に着けば、艦長から説明があると告げられていただけでした。
既に日本の戦況は芳しくなく、潜水艦とは言え、護衛のない単独行は無謀であり、フィリピン沖まで進んだところで、敵機の攻撃にあって撃沈されてしまいました。
艦長と他の乗組員全員は、艦と運命を共にしましたが、常和氏だけは大学生であり、正式な軍人とも言えないことから、退避しろと言われて一人だけ救命胴衣を着せられて海に放り込まれて生き残ったのです。
3日間海に漂っていたところを、通りかかった帝国海軍の駆逐艦に救助されました。
ところが、駆逐艦の艦長は、当時そんな潜水艦が作戦行動を取っているとの報告を一切受けていませんでしたから、日本の大学生の彼が、何故一人で海に漂っていたのか、どうにも理解できませんでした。
どうやら、彼の存在自体が帝国海軍内でも不都合な真実となってしまったわけで、フィリピンの港に着くや、艦と運命を共にせず逃げ帰った国賊と非難されつつ、翌日には有無をも言わさず、貧弱な水雷艇に乗せられて出撃することなりました。
こちらは出航後半日という短時間で、敵機の魚雷攻撃により撃沈されてしまい、常和氏も、敵機の機銃掃射を受けて、銃弾が腹部を貫通する重傷を負いながらも、気付けばまたも唯一の生き残りとなっていました。
しかし、奇跡的に内臓に損傷がなく、出血も少量だったため、これまた3日間海に漂っていたところを、皮肉なことに前回と同じ駆逐艦に救助されました。
常和氏は、特殊任務で徴用された訳ありの大学生であり、口封じのために直ぐに出撃させられたのだと理解した駆逐艦の艦長が、彼を気の毒に思って手配してくれたため、名誉の負傷ということで、早々に宮崎に戻ることができました。

ほどなく終戦を迎え、常和氏は大学に復学できると思ったのですが、ここで戸籍の問題が持ち上がりました。
当時飛び級制度はありましたが記録では普通に入学したことにしかなっていませんから、学籍上は常夫さんの戸籍では本人ではないとされてしまったわけです。
実際に、戦死した戦友に代わって東大生となり、その後恵まれた人生を送った人も居たのですが、常和氏の場合は、戸籍があったことがむしろ災いしました。
そして、二度も周囲の人間が皆死んでしまった戦争経験のPTSDなのか、常和氏は感情に乏しくなりました。
しかし、英語ドイツ語が堪能だったこともあり、通っていた神戸の大学を卒業したと偽り、亡父の知人の伝手で一流商社に勤めることができました。
ところが常和氏、帰国した時に、継母や兄弟たちに迷惑がかかりますからどうしようかと悩んでいると、実母留美の親戚と名乗る正体不明の美女高瀬梨乃が現れ、彼女と同棲して養ってもらっていたのです。
その後、当時としては珍しいテレビ番組を通じて資産家の娘である神坂高子さんと知り合うと、彼女を口説いて、婿養子となる条件で結婚を認めてもらいましたが、高子さんと神坂家にも、学歴を詐称し、梨乃に養ってもらっていたことも秘密にしていたのです。
しかし、高子さんの母鶴子さんは、勘の良さも天才的で、常和氏には女が居るだろう、そんな男には娘はやれんと、二人が同棲していた家に押しかけて詰め寄りました。
この時梨乃さんは、常和氏の幸せを思って鶴子に土下座して謝って身を引いたのです。
鶴子、梨乃さんのことは、夫の貴尚氏にも娘の高子さんにも話していませんでしたから、女同士の約束に免じて、彼女のことは二人には話しませんでしたが、12年後に当時まだ10歳ながらすっかり大人になっていた孫の一郎君には話したのです。
しかし、妻の父に資産があることは、仕事に実が入らなくなる原因となり、PTSD様の症状も、当時は知られていませんでしたから、一郎君が小学2年生の時に、彼の精神状態がおかしいことを心配した上司が調査して学歴詐称がばれ、会社を首になってしまいました。

鶴子さんは梨乃さんから聞いて知っていたのですが、貴尚氏と高子さんは、ここで初めて常和氏の学歴詐称を知ることになりました。
貴尚氏の知人の弁護士は、常和氏を訴えて養子縁組を解消しろとアドバイスしましたが、すでに一郎君と妹の君子さんが生まれていましたし、君子さんが結婚する時の支障になると、貴尚氏は訴訟に踏み切りませんでした。

それ以降、常和氏は、義父の資産家神坂貴尚氏の財産を当てにして、ろくに働きませんでした。
嘘も、最初は学歴詐称だけだったのですが、それを隠すためにつぎつぎとつき通すこととなり、常和氏自身も、途中からどれが真実だったのかわからなくなっていきました。

続く。