また、第二次世界大戦の記憶を呼び覚まされる時期がやってきました。

戦後生まれなのに何故だと言われそうですが、私、前世記憶だけでなく、両親の記憶も一部受け継いでいますから、それを思い出す辛い時期なのです。

本当の前世の方は、京都帝国大学の学生で、なさぬ仲の婚約者だった女性(何と現世の母)と別れて学徒出陣で出征し、フィリピンあたりで希望なき戦闘の末、熱病で死んだように覚えています。

また、前世の私と入れ替わりに転進(実際は撤退)してきた父(現世の)は、戦時中自分でもよくわからない密命を帯びて行動させられていました。
彼は、亡き父が外交官で、アメリカ生まれだったこともあり、英語ドイツ語日本語のトリリンガルだったのです。
そのためか、大学在学中に学徒動員とは別に早い段階で特別に徴用され、異例なこととして、海軍兵学校で短期の教育を受けたのです。
その後、任務を知らされぬまま、行けばわかると言われて呉の近くの瀬戸内海で海軍の身内さえ知らなかった大型の潜水艦に乗せられ、ドイツを目指したのかどうかわかりませんが、どこかに行く途中、東南アジアで撃沈されたのですが、艦長命でたった一人退艦させられて生き残ったのです。
他の者がみな死んでしまいましたから、彼の疑問、「自分の任務は一体何だったのだ。どこに向かっていたのだ。」の答えは、永久に見つかることはありませんでした。
しかも、たった一人生き残った彼に、前線の兵士たちは冷たく、直ぐに死んでこいとばかりに、水雷艇に乗せられて出撃した途端、戦闘機の攻撃でまたも撃沈されたのです。
この時は、腹部を銃弾が貫通した(お風呂で見せてもらいましたが、直径3センチぐらいの銃創でした。)ものの、奇跡的に内臓に損傷はなく、3日間海に浮いていて奇跡的に助かって、今度は名誉の負傷で少し扱いがよくなったところ、野戦病院にいた上官の好意で、前途ある大学生だからと転身組に入れてもらい、宮崎の飛行場に帰ってくることができたのです。

昨年宮崎の平和台公園を訪れた際に、その時の父のことを少し書きましたが、父は、自分の経験を話しても誰にも信じてもらえず、帰ってきたら大学に復学させるとの約束も守られず、運命を呪い、感情を奪われた(今ならPTSDと診断されるところでしょう。)、言ってみれば戦争の犠牲者となったのです。

母も、祖母と共に大阪大空襲の数少ない生き残りでしたが、周囲の人が、焼夷弾の直撃で首がちょんぎれたり、次々と焼死したり、炎を避けて川に飛び込んで溺死していくこの時の記憶もまたすさまじいものがありました。

私自身が受け継いだ二人の記憶から、両親には人間らしい感情、特に愛情に欠陥があったことも無理からぬものだったのかなと、子供ながらに理解できるものはありました。

祖父母は精神的にもタフでしたが、今なら両親二人ともPTSDと診断されるところでしょう。
でも、その後父は子供たちをネグレクトし、母は私に毎晩のように殴る蹴るの虐待をし、まともな人生を送ることができなかったのは二人の弱さであり、私を含め3人の子供と周囲の人々に多大な迷惑をかけたことを容認することはできません。
でも、今の平和な日本が築かれた陰に、彼らのような犠牲者が数多くいたのだと思いますし、まあ、許すしかないかと考えることはできるようになりました。

戦争は、決してよいものは産みません。
そのことを、毎年考えさせられます。
同時に、今の自分は幸せなのだと。

画像は、大空襲後大阪市内から疎開してきた頃から我が家にあり、今は京丹波の家の庭に置いてある手水鉢(花崗岩製で、500キロぐらいの重量がある)と、その主(カエルw)です。

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