小説『命泣組曲③』(文/にゃんく)~にゃんく版「不思議の国のアリス」物語はいよいよ佳境へ | 『にゃんころがり新聞』

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(命泣組曲①↑を読んでいない方はこちらからどうぞ。)

 

 

命泣組曲③

 

文/にゃんく

 

 


我に返ったとき、かなりの時間が経っていて、自分がベッドのうえで寝ていたことに気づいた。病室のなかには灯りがともり、左手のカーテンの隙間から、暮れなずんだ外の世界が覗いていた。
全身嫌な脂汗でねっとり覆われているように感じた。
嫌な夢だった……。
右手には、締めきられた仕切りのカーテンがある。テーブルのうえのガラスのコップに入っていた水をがぶがぶと全部飲み干した。額に浮かんだ汗を手先で拭った。
あたしは、二十一歳の女子学生だ。夢のなかで、その真実の鳥は、あたしの元からいとも簡単に飛び去って行こうとした。目を醒ましたあと、あたしは自分の若さに必死の思いでしがみつこうとしたけれど、何だか胸騒ぎがおさまらなかった。
ベッドのうえに起きあがり、手を伸ばし、窓のカーテンを半分開けてみた。窓ガラスに映っていたのは、八十歳の老婆の姿だった。拳ひとつ楽に飲み込めそうな大きさに口が開き、叫び声が出そうになるのを、両の掌で懸命に抑え込んだ。目に涙が滲み、うっ、うっ、うっ、と吐き気のような嗚咽が幾度もこみあげてくる。
右手の仕切りのカーテンに手を伸ばし、三十センチほど開けてみると、亡くなったお爺さんが横たわっていたベッドのうえの布団はきちんと畳まれ、がらんとしていた。その虚ろなベッドが、次はあたしの番と告げているように思えた。
カツ、カツ、カツ。
あたしが起きるのを待ち構えていたかのように高らかな足音が響き、ドアの開く音がした。
あたしはすばやく仕切りのカーテンを元に戻し、何事もなかったかのように、できるだけ自然なふうを装いベッドに横たわった。
カーテンが開くと、あの女が現れた。胸に赤ん坊を抱えている。女のあとから六歳くらいの男の子がついて来ていた。
「ご気分は、どうですか、お母様」
女は絵に描いたような笑顔を浮かべていたけれど、目だけは全然笑っていなくて、こちらの動きの一挙手一投足をじっくり観察していた。怒っても、暴れても、哀願しても、泣いても、みんなして暴力で抑えこみ、また注射を打たれるだけだ、今はひたすら自重して、反撃のチャンスを窺うしかないわと、あたしは自分に言い聞かせた。
「うん、だいぶ、いいわね」
あたしは痩せ我慢の笑顔を浮かべて言った。女は急に甘えた幼児のような声を出し、
「良かったわねー、お婆ちゃん、はやく良くなるといいでちゅねー」

と腕に抱いた赤ん坊に話しかけた。お婆ちゃん……。女が抱いた赤ん坊はぐったりしていて、瞬きもほとんどしなかった。それは汚らしい布きれに包まれ、よく見ると赤ん坊というより、三歳児程度の軀つきをしているのだが、垂らした腕や頬などは難民のようにガリガリに痩せていて、顔面蒼白、呼吸は常にひどい喘息のような音をさせている。ちゃんと食べ物を与えているようには思えない。
「その子は……」
とあたしが言うと、女が「うん」と言って、あとの言葉を引きとった。
「赤鬼ちゃんよ。お婆ちゃんの、孫でちゅよ~、ばぶー」
あきれ果てて、しばらく物も言えなかった。自分の子供に、赤鬼ちゃんなんて、そんな変な名前をつけるセンスにあたしは軽蔑を通り越して、吐き気すら覚えた。
あたしは母子から顔をそむけ、格子状の窓の外の、遠景に浮かぶ灯を浮かべた家々を、眺めるともなく眺めていた。そして、この女が、あくまであたしの〈娘〉だと言い張るなら、今はこの女の言うとおり、おとなしく〈母親〉のふりをしてやろうと思った。そうして力を蓄えつつ、隙をついて一気に反転攻勢に出るのだ。
「ねえ、あなた」

とあたしは名前も知らない自称〈娘〉に呼びかけた。

「最近、いろいろ物忘れが激しくなって、お父さんの顔を忘れちゃったのよ。思いだそうとするんだけど、喉元まで出かかってるんだけれど、思い出せないの、ほんとにひどいわよね、笑って頂戴ね」
女は体勢を変えながら、カッと目を見開いた赤鬼ちゃんを揺すり続けている。まるで揺することによって、生命力の弱い赤鬼ちゃんが元気を取り戻すと思っているかのように、粘り強く、熱心に、しつこいくらい。
「そんなの、私だって、しょっちゅうあるわよ。朝起きたら主人の顔を思い出せなくなっていることなんて、ザラにあるわよ。待って、今、見せたげるから」
女は赤鬼ちゃんをベッドのうえのあたしの隣のスペースに横たえると、そばにいた男の子に、
「ちょっと見といて頂戴ね」
と言って、ぐるっとあたしの足元をまわり、窓の傍の棚の前までやって来た。女は屈み込み、下段から分厚い鶯色のアルバムを取りだし、ぱらぱらとページを繰っていた。ある時、女は手をとめて、

「これよ」

と言って、あたしを見あげた。
そのページには、禿げた頭にワカメのような白髪が風に靡いている初老の男が、汚らしい大口を開けてにかっと笑っている顔がアップで映っていた。
「ほんとにいい人だった、お父さん」
と女はわざとらしく溜息をついて、言った。
突然赤鬼ちゃんが、痩せ細ったその指で、白濁した壁の、虚ろな一点を指さし、
「カプ、カプ、カププッ」
という呻き声のような、歌い声でもあるような、謎の言葉を吐いた。
「おい、静かにしろよ、うるさいぞ」
と六歳くらいの男の子が言った。男の子は赤鬼ちゃんほどの栄養失調というほどではなかったけれど、それでも異常に痩せていた。顔は赤鬼ちゃんと瓜二つで、口が尖り、人間というよりサバンナに生息する、半分鳥類、半分哺乳類とでもいうふうな顔立ちをしていて、そのなかでまん丸の目が異様にぎらついて黄色い光を放っていた。
突如女が金切り声をあげ、ベッドのうえに半身を乗り出し、男の子の頬をビンタした。パンッという目が醒めるような音が部屋のなかに響いた。
「青鬼ちゃん、お兄ちゃんなんだから、優しくしなさいって何度言えばわかるの、どうしてそんなことばかり言って弟をイジメルの」
わーん、わーんと男の子が泣き声をあげる。女はアルバムをあたしに押しつけると、男の子から守るように赤鬼ちゃんの軀をベッドから抱きあげた。
「どうしたの? どうしたの? おー、よしよしよし、よしよしよしよし」
赤鬼ちゃんに対する、無意味で全く無駄な女の揺さぶりの動きが、再開される。
「ピンゲ、ピンゲ、ピンピンゲ」
と赤鬼ちゃんは尖った口を開け、歓喜の様相はますます鰻のぼりで、壁の一点を指差し何事かをあたしたちに訴えかけている模様。
一方で、青鬼ちゃんと呼ばれた男の子の泣き叫ぶ声は耳を掩いたくなるほど大きくなっていく。
あたしはアルバムのお爺さんの写真に視線を戻した。
アルバムを両手に取り、膝のうえに載せてみた。ページを繰っていくと、そこには様々な種類の写真がおさまっていることがわかる。
夫との結婚式の様子や、赤ん坊が誕生して間もないころ撮った記念の写真(写真の下のメモに、

「一人娘、フチ子誕生」

という言葉が添えられている)。

その〈娘〉、フチ子が、初めて畳のうえをハイハイした図。一家でピクニックか何処かに出掛けたときに撮った思い出の一枚。フチ子の小学校の入学式の写真。フチ子の運動会の写真。障害物競走に挑むフチ子の火照った顔。誕生日、ケーキを前に、ピースする四十歳くらいのあたし。やがてお爺さんとお婆さんになったあたしと夫が、何処かの温泉旅行に行って記念撮影をしている図。そして極めつけは、夫の葬式の遺影。


あたしは意識が遠くなるような気がした。
実際アルバムのなかにおさまっている、このような多数の、歴然とした証拠の海を泳いでいると、あたしは自分のことを過去をすっかり忘れてしまったぼけ老人で、今すべてを思いだしたように感じていた。
あたしは優しいキチ子お婆ちゃんで、何もかも充足している。娘のフチ子には子供たちもいて、もう思い残すことは何もない。人間の一生は短いし、誰だってやり直すことなんてできない。自分の人生を受け入れねば。この完璧な家族のなかで。おとなしく、笑顔をたたえながら、不平をいわず、残り僅かな人生を、波風立たせずに生きていくべきではないか。そうすることが自分に求められていることであるし、正しき態度ではないだろうか。今さらすべてをひっくり返そうなんて思ってはいけない。いったい何にしがみついてそこまで闘おうとするのだろうか。第一、自分に闘ってまで取り戻せるものなんて、残っていない。あたしは認知症のおばあさんで、自分の名前も、家も、過去ですら、わからなくなっていた。それだけの話なのだ。
そのように考えて自分を納得させようとした。でも、すんなりとはいかないで、どういうわけか、悔し涙まで滲んできた。
ふと胸元に視線をおとすと、浴衣の下に、何かが見えた。手で触れてみると、それは固くてあたたかい。
トパーズのネックレスだった。


ネックレス……。
フチ子がぺちゃくちゃと何かあたしに喋りかけていたけれど、あたしはフチ子の話なんて耳に入っていなかった。どうせたいした話ではなかったろう。それよりも、そのネックレスにこころを奪われていた。それは、あたしがこの病院に入院する前に、彼からもらったネックレスだったのだ。彼にそれをもらったときのことが、幻影のように思い出される……。
「かならず逢いに行くよ」
夢人はあたしにそう言った。その言葉も、吃音症気味のその喋り方も、照れた時に鼻に手をやる癖も、滅多に笑わないけど、あたしの好きな笑ったときのその顔も、幻の出来事のように霞んでいこうとするけれど、このネックレスだけは霞もうとはせずにあたしの胸のまえで輝きを放ち続けている。
あたしは自分を取り戻そうとするように、そのネックレスを掌のなかにそっと握りしめた。
考えてみれば、はじめからおかしかった。
年がら年中、お金をほしがっているようなあたしの母が、あたしにこの病院に一週間、被験者として入院してほしいと頼んできたことが、そもそものはじまりだったのだ。
あたしはどういう治療をされるのか、何のための入院なのか、それすら知らされなかった。ただはっきりしていたことは、よほど高額の報酬が母の口座に振り込まれたらしいということだけだった。
そして気付いたとき、あたしは母からも、病院からも騙され、女子学生から、人生の終わりをまもなく迎えようとしている老婆に変身してしまっていたのだ。架空の人生をでっちあげられて。


……
手元のアルバムが目の前に迫ってきた。
もうそのアルバムを見ても、あたしは自分を見失いそうになったりはしなかった。
よくここまで出鱈目の写真を合成したり、捏造したりできるものだわ、とあたしは感心すらする余裕を取り戻していた。
このアルバムは、贋物だ。あたしの夫だったというこんなお爺さん、結婚したこともないし、一度だって見たことも話したこともない。まったくの他人であることは疑う余地がない。
ある時、これはドッキリですよ、と昔テレビでやっていたみたいに、レポーターが出てきて、

「騙されちゃった」

なんてことになるんだろうか、と期待する気持ちもなくはなかった。けれども、いつまで経ってもレポーターなんか出てきやしないし、あたしは騙し甲斐のある芸能人でもない。このアルバムを見る限りでも、これはただの嫌がらせではない。もう、よっぽど手の込んだ、組織ぐるみの陰謀だ。あたしは何か、歴史の巨大な闇のようなものに巻き込まれ、生体実験にされ、今やたった一度きりの人生を滅茶滅茶に踏みにじられようとしているのだ。
一刻も早くこの病院から脱出しないと、あたしはほんとうに隣のベッドで亡くなった、かわいそうなお爺さんみたいに、変な薬を打たれて、今日か明日にでも死んでしまうのは明らかだ。

 

 

戦闘、開始。
この病院から脱出しなければならない。此処から逃れ出ようとするあたしと、あたしに此処でおとなしく死んでもらいたい病院(親を含む)との戦争が、今はじまったのだ。
部屋のなかは静かで、一時は耳を劈くばかりだった青鬼ちゃんの泣き声はやんでいる。フチ子はやはり何処か未開の辺境の、野蛮人の踊りに似た仕種で、胸に抱いた赤鬼ちゃんを揺すり続けながら、アルバムに目を落とすあたしの様子をうかがっている。
しばらくすると、
「ゴゴゴゴゴ……!」
という地響きのような音が聞こえてきた。何の音かと思ったら、赤鬼ちゃんの意味不明の呟き声だった。
「おー、よしよしよし、どうしたの? お腹すいたの?」
フチ子が話しかけても赤鬼ちゃんの呟きはやまない。
「デュフ、デュフ、デュフフフ」
と、何かおかしいことでもあったのか、赤鬼ちゃんはひとり悦にいったようにぞっとするような奇妙な声をあげはじめた。
「うるせえな」

我慢できないというふうに、青鬼ちゃんが言ってのけた。

「気持ち悪いんだよ」
赤鬼ちゃんを揺すっていたフチ子はぴたりと軀のうごきをとめ、ベッド越しにあたしに覆い被さらんばかりに身を乗り出し、首の骨が折れてしまいそうなほどの力を平手に込めて、青鬼ちゃんの頬を強打した。
「わーん、わーん!」
青鬼ちゃんが頬をかかえて蹲り、その絶叫が、部屋の外に漏れるほどだ。
「弟を大事にしなさいって、何度言ったらわかるのよ!」
とフチ子は言って、昂奮しスカートを履いた股を開き、地団駄を踏んでいる。フチ子はまだ擲り足りないかのように、握りしめた拳骨に自分の息をふーふー吹きかけている。
「ちょっとお手洗いに行ってきます」
とあたしは言って、スリッパを履いて廊下に出た。やはり足元がすこしふらふらする。壁に手を添えながら、トイレまで進む。
トイレの個室の中の同じ場所に、若返りのエキスのことが記載されたあのビラが落ちたままになっていた。あたしはそれを小さく畳むと、浴衣の帯のあいだに隠した。このビラに、あたしがお婆ちゃんになった秘密が隠されているような気がしてならなかった。

(続)

 

 

 

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