忘れられない人 | 『にゃんころがり新聞』

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忘れられない人
にゃんく




 雨の中、顔を歪め、鼻水を垂らし、ずぶ濡れになった女が路上に蹲り泣いていた。俺が傍によると、異様に目をぎらぎらさせて上目遣いに睨んだ。
 人通りは皆無ではなかった。でも、皆この女と関わり合いになるのを避けるかのように、女を避けて通りすぎていた。
女はこの蒸し暑い中、寒気がとまらないというふうに、ぶるぶる震えている。
どうして泣いているのかわけを訊ねても女は言葉を忘れてしまったみたいに首を微かにふるばかりでこちらの質問にはまるで答えようとしない。ただ、
「わたしにかまわないで。わたしはもうすぐ死ぬの。死んだほうがいいの」
 そう呟くばかりで、女は自分を殺しに来る者が今まさに近付いて来ると言うかのように、遠い路上の先にむけた目を見開き、ますます激しくからだを震わせるのだった。

俺は女の手を引いて六畳一間の狭いアパートに連れて帰った。

 女は浮浪者というわけではなく、身なりは清潔で、雨で濡れた以外は特に嫌な臭いを発しているわけでもなかった。
アパートのなかにいれると、タオルを差し出した俺の手に、女はビクンとからだを震わせた。俺は女にとりあえず服を貸してやった。
 俺のシャツを着て脱衣所から出てきた女が、クチュンとくしゃみをした。
 ガス代を使うので、ほんとうはやりたくなかったのだが、俺は女のために風呂を沸かした。いつ振りだろう、風呂なんて沸かすのは。時々盥に水をためて、手拭いで濯ぎながら体を拭くだけの生活になって久しかった。
風呂から出てくると、女は前髪を垂らし、表情を隠したまま、脚をかかえて畳のすみで小さくなっていた。俺は女を抱くことを想像してみた。けれど、まったく、その気にならなかった。女は俺とほとんど同じ歳頃だろう、まだ三十代なかばくらい、痩せて頬はこそげ落ち、目は落ち窪み、どことなく幽霊のように暗い雰囲気を全体に漂わせている。全く抱く気にならなかった。もちろんそんなことを口には出さない。出さないが、女は何故だかそんな俺の気持ちを察しているかのように、居心地悪そうに壁に凭れて縮こまっているばかりなのだ。
 窓の外を見ると、まだ雨が降っていた。
「どうして死のうと思っていたんだ?」
 と俺は女に訊ねた。女は目を伏せたまま、何も答えなかった。

「答えたくなければ、答えなくていいさ」
 と俺は言った。「でも、死ぬな。俺にも、あんたにも、どんな人間にも、何かしらいいところはある。会ったばかりだから、あんたのことはまだよくわからないし、どんな目に遭ったのかもわからないが、あんたには、誰にも負けない、あんただけの、いいところが必ずあるはずだ。それを必要としている人間だって、きっといる。だから、死ぬな。俺がいいたいのは、それだけだ」
 女は返事をしなかった。ただ、目を俺からそらして畳を見つめたまま、俯けていた顔をわずかにあげただけだった。
 女に聞こえるほどの大きな音で、俺の腹の虫がぐうと鳴った。俺は恥ずかしく思い、
「ああ、腹減ったな、くそ」
 とわざと何でもないふうを装って空元気に言ってみた。そして女に、
「こんなところに長く居ても食べるものもありゃしないぜ。明日になったら家に帰るんだよ」
 と諭し、いつものように布団を敷き、その隣にスペースを作ってバスタオルをひろげた。俺は女に布団で寝るように言った。女がおずおずと布団のうえに移動しおわるのを見計らって、電球の紐を引っ張り、電気を消した。俺はバスタオルのうえでごろんと横になって目を瞑った。

 翌日、俺は物音で目を醒ました。振り仰ぐと女が台所に立ち包丁をつかっていた。
 起きだした俺は訝し気に、
「何をしている?」
 と女に問うた。昨日より幾分ゆるんだ表情を見せた女は、当たり前のように、
「お味噌汁作っているの」
 と答えた。俺はふらふらと立ちあがり、よろめきながら台所までの僅かな距離を歩いた。女が皮を剥いたじゃがいもを細く刻んでいる。此処でひとりで暮らしはじめてから、お味噌汁なんて食べたのは何年ぶりだろうと俺は思った。俺は自分の体が内側からあたたまるのを感じた。
 台所で口をゆすぎ、一杯水を飲んだあと、座卓にすわって汚れた窓のそとの隣家の煉瓦を、眺めるともなく眺めていた。十分ほどすると、俺のまえに炊きたてのご飯と、お味噌汁が並べられた。
「召しあがれ」
 昨日の恩返しのように、女はやさしく言った。味噌汁のいいにおいがした。別段たいしたこともしていないのに、こんなにしてもらっていいのだろうか、と思いつつ、俺は箸をもって味噌汁をすすり、飯を口にふくんだ。食べたあとから、疑問があたまにのぼった。
「これ、何処で手に入れた?」
 俺の家には米の常備もなかったし、味噌汁にする具材だってありはしなかった。無収入だから、食べるものといえば、コンビニで廃棄される弁当か、それがなければ水道水ということがほとんどになっていた。三十で仕事をやめ、妻にも逃げられた。すこしばかりの貯金も底をつき、このような底辺まで転落した。いずれ水や電気もとまり、家賃を滞納しているこのアパートから追い出される事態になるのも時間の問題だった。このままではいけないことはわかってはいるが、いったん底辺に落っこちた者が這いあがることはこの日本では至難の業だ。誰だって俺と同じ状況に追い詰められればそうなるだろう。ほんとうに、這い上がることは、難しい。

「この時間じゃ、スーパーだって開いてないだろう」
 女は胸まであるきれいな髪を掻きあげた。外面の枯れ果てた感じとは裏腹に、髪質だけは美しかった。それが皮肉にも、女の不器量をより際立たせていた。
「ご近所さんからわけていただいたの。盗んできたものじゃないから、心配しないで。召しあがれ」
 女は何でもないかのような口吻で言った。
 ご近所さん? 近所付き合いなど、したこともないし、したいとも思わない。大丈夫か? という気がして俺はご飯をもう一度見つめた。けれども食欲には勝てなかった。ものの五分もしないうちに俺は朝食を平らげていた。

 それから俺と女の奇妙な共同生活がはじまった。
 女は時々家からいなくなり、そのまま戻ってこないかと思っていると、道を覚えている賢い飼い犬のようにちゃんと俺の家まで歩いて帰って来た。そうして何処からか食料を調達してきて、俺に食べさせてくれた。どうやって入手してきているのか、皆目謎だった。吃驚して訊ねても、俺にはどうやったらそんなにうまくいくのかわからないほどだった。が、ちゃんとした食事だったから、俺に文句のあろうはずもなかった。女が差し出すままにそれを胃のなかに流しこんだ。
 女には帰る家もないようだった。甲斐甲斐しく給仕する女の姿は、妻そのものと言ってもよかった。けれども、俺たちは結婚したわけではなかった。俺は女に肉体的な関係を求めたことはなかったし、女のほうも、どういうわけか、聞き分けのよい犬のようにお行儀がよく、一線を越えてこなかった。女が求めてこないことが、俺の気持ちを楽にさせてくれていた。つまりその時の俺たちは単なる同居人の関係を維持しており、それ以上でも以下でもなかったということだ。

 女はごく僅かしか食べ物を口にしなかったが、隣に座り俺が食べる姿を嬉しそうに見つめていた。女には男を支える不思議な才能があるようだった。俺はあらためて女を見直していた。俺は思わぬ掘り出し物を見つけた気分になっていた。
 しかし、無収入で喰っていくのは、やはり並大抵ではなかった。時に女は夜遅くなるまで外を這いずりまわって、食糧を捜してこなければならなかった。そして大家が毎日のようにやって来てはやかましく家賃の督促をした。
「すこしお金があったらな」
 と俺はある時女にむかって呟いた。「こんな生活はいつまでも続けられるものじゃない。俺がまともな職に就いていれば、お前にこんな苦労をさせなくてもすむのだが」
 何気なく呟いた俺の言葉に、女は思いを巡すように、剥がれかかった汚い部屋の、壁紙のシミを見つめていた。

 明くる日、起きだしてしばらくすると、女がふたりで商売をはじめないかと持ちかけてきた。
「家賃だって溜まっているし、水道代や何やかやだって払わないといけないわ。お金を稼げば、生活水準もあがって、あんたに楽させてあげることができるもの。ねえ、そうしましょうよ」
 でも、俺は商才なんてないよと女に言った。
 公務員で、ただ机に坐っているだけで給料をもらっていた。それすらも何年も続かなかった。仲間や上司とうまくいかなくなり、嫌になって辞めたのだ。俺は何処の組織に属しても全く使えない人間で、誰にとっても価値のない、そこらへんに転がる石ころみたいな男だった。
「あなたは何もしなくていいのよ」
 と女は言った。「私の傍にいてくれるだけでいい。あとは私が何とかするわ」

 重ねて説得してくる女に、俺はやむを得ず同意していた。難しいことは聞かなかった。聞いても頭にはいってこなかったし、興味も持てなかった。女には悪いが、どうせ失敗するだろうくらいに思っていた。だから期待もしていなかった。
 ネットを使うのだということだった。日本は高齢化社会だから、介護の仕事なら幾らでもあるというのが女の見立てだった。
 女はなけなしの所持金を使いはたし、部屋にネット回線を繋ぎ、いちばん安い、中古のパソコンを買い入れた。女はパソコンのひかりで何時間も顔面を青色に点滅させていた。そうして俺にはわからないパソコン言語を操り、手作りのホームページを開設すると、何日か経って、そこに仕事がはいるようになった。それからは女は外を飛び回るようになった。そして帰ってきたら、熱心にメールをチェックしていた。俺は部屋でごろごろしているだけだった。それだけで飯は食えたし、女と商売をはじめてから数ヶ月後には、それまで俺の安眠を脅かしていた大家の借金の催促も、嘘のように来なくなっていた。

 やがて女は人を雇い、自分が外回りに出ることはやめ、被雇用者に出先の仕事を任せるようになり、自分は家にいながら、俺の隣でパソコンの画面を操り、あれこれと指示をだすだけで、金を無尽蔵に湧きださせることができるようになっていた。それはまったく驚くべきことだった。こんなにたやすく、しかも短期間のあいだに、これだけの成功をおさめることを、いったい誰が予想できただろう?

 時がたち、六畳一間では手狭になったから、都心のマンションに俺と女は引っ越して、そこに住むようになった。五十階の窓から見える都会の景色は百万ドル、いや一千万ドルの夜景だった。見られる側ではなく、上から見下ろす立場に昇格したのだ。浮浪者になりかかっていたことを考えれば、夢のような話だった。
 女がくる前は、昼寝ばかりしていた。金がないから、それ以外のことはやりたくてもできなかったのだ。けれども満腹し、金に余裕がでるようになってからは、オレはそんな生活にもだんだん退屈するようになっていった。
 相変わらず女は忙しそうにしていた。はじめのうちは、俺は家事をやって女を助けていたが、それもそのうちやめてしまった。女はそんな俺に対し、喜びはしなかったけれど、それでも小言ひとつ言わなかった。時々ディナーを予約して、三つ星レストランでふたりで食事をした。それが女の愉しみのひとつらしかった。仕事をしている時の女の顔と、俺と一緒にいるときの女の顔は、明らかに別人だった。共同生活をはじめてから、いつしか俺は、女の存在を空気のように当たり前のように考えるようになっていた。ただ、死のうと思っていた女を俺が拾って来て、助けてやった。それだけの関係が続いていた。それを女がどう考えていたのかはわからない。でも女は女で、俺に感謝しているのは確かなようだった。何しろ死のうと思いつめていたのだから、あるいは俺のことをいのちの恩人くらいに考えていたのかもしれない。それを証明するかのような、俺を支える、女の献身的な働きだった。そして俺と一緒にいるときの女の顔には幸せのオーラが満ちあふれていた。
 マンションにはいくつか部屋があったが、俺たちはあの薄汚い六畳一間のアパートに住んでいた頃と同じように、夜はベッドを並べた同じ寝室で眠った。それに大した意味はなかった。わざわざばらばらの部屋で眠る必要を認めなかっただけの話だ。

 ある時、俺は若い女の子が欲しくなった。金は女が稼ぎに稼いでくれているおかげで、幾らあるのかわからないほど貯まっていた。もちろん元はといえば女の才覚ひとつで稼いだ金ではあるが、女から毎月の小遣いだってもらっていたし、その範囲内では俺にだって自由に使える金があった。小遣いは月に数十万円という金額で、ギャンブルもやらない俺には使い切れない額だった。誰しも男なら、それだけ余裕があればとびきり若くて美人な女の子を手に入れたくなるのが人情というものだろう。俺は女の子を捜した。通りには、何人か、俺の眼鏡にかなう女の子が歩いていた。でも彼女たちの大方は、すでにその所有者である男たちの手から伸びた鎖が、下半身に厳重に巻きつけられているようなものだった。情けないことに俺はどうやって自分の欲しいものを手に入れたらいいのか思いつかなかった。それは切実な悩みだった。それにこの手の欲望は、手に入るのが難しいと分かれば分かるほど、どこまでも自分の手におさめなくてはすまないような気になるのだった。そこで、俺が相談できる相手はただひとりだった。俺は女にその話をした。女は俺の悩み事や希望をこれまで何でも叶えてくれていた。今回だって例外ではないはずだった。
「とびきり若くて美人な女の子が欲しいのだ」
 俺のことばを聴くと、女はすこし哀しそうな顔をした。それはかつて見せたこともないような潤みを帯びた目だった。強いて言えば、はじめて出遭ったとき、路上に蹲り、死ぬと放言していたあの時の顔に似ていなくもなかった。でも俺は女が何故そんな表情を見せたのか、意にも介さなかった。女の考えることは時に複雑すぎて、俺の手に負えなかった。けれども俺の欲求は簡単だった。若くてかわいい女の子がほしいだけだ。そんな欲望は、男なら誰しも持つものだろう。別段珍しいものでもない。
「わかりました」
 しばらくすると、女は気を取り直したように、いつもの声で言った。「すこし待っていてください。お望みの者を連れて来ます」
 そう答えた。
 数日の間、俺はマンションの窓から外を眺めたり、無闇に部屋と部屋のあいだを行ったり来たりして、女の子がやって来る日を今か今かと首を長くして待っていた。今度ばかりは、そうやすやすとはいかないような気がした。いくら女でも、魔法使いではあるまいし、俺の願いごとを無制限に叶えてくれる力を持っているものではあるまい。

 幾許もなく、玄関ドアのチャイムが鳴らされた。そしてドアの外に立っていたのは、にっこり笑いかける、まだ二十歳前後の、若い女の子だった。俺は有頂天になった。できればその場で食べちゃいたいくらいだったが、さすがに思いとどまった。女の子は笑顔がかわいらしく、声がまるで生まれたての仔猫のようで、料理は下手だったし話はつまらなかったけれど、そんなことは全然気にならないくらい、小さいが体の何処に触れても柔らかくて、何とも言えないくらい女の子らしい体つきをしていた。俺はその子のことしか頭にはいらなくなっており、女がマンションに帰ってこないことにもさして関心を払っていなかった。女の子とふたりきりになりたい俺に気兼ねしているのだろう、そのうち戻るさ、くらいに考えていた。女の子の名前はバニーといった。本名ではなく、たぶん愛称だろう。俺はその子のことをバニーちゃんと呼んでかわいがった。そしてバニーちゃんが夜に漏らす声は俺を夢中にさせた。
 俺はバニーちゃんをくどいて彼女から婚約を取り付けることに成功した。その頃俺はやっとすこし冷静になって周りを見回すことができた。最後に女を見かけた時からずいぶん日にちが経っていた。俺はあの女がもう俺の元に帰ってくるつもりのないことにその時ようやく気がついた。

 しばらくは女が遺していってくれた金で生活できたけれど、その栄華も長くは続かなかった。女が不在のため、ネットに開設していた商売も、俺にはうまくこなしていく能力もなく、やり方もわからなかったために、重大ミスが頻発し、思いがけない出費が続いた。さらに、婚約者であるバニーちゃんの贅沢三昧の生活が事の悪化に拍車をかけた。気がついてみれば、女がいなくなってから数ヶ月であれほど余裕のあった貯金は底をついてしまっていた。あとはプレハブのような薄汚い六畳一間の人生に転げ落ちるまでたいした時間はかからなかった。バニーちゃんは後ろも振り返らずにぴょんぴょん飛びはねて俺の元から去って行ったし、俺は再びアパートの家賃すら滞納する生活に舞い戻っていた。

 雨の降る日だった。
 俺はあてもなく夜の街をさ迷っていた。
 俺が捜していたのは、バニーちゃんではなく、雨の日に路上で蹲って泣いていたあの女のことだった。今となっては、女が生きているのか死んでいるのかすらわからなかった。一緒に出かけたレストランで、ワイングラスを片手に乾杯をする女の笑顔が、昨日のことのように思い出された。
 何処を捜しても泣いている女の姿は見あたらなかった。けれども俺には女が死を決意した表情で涙を流し、今まさに何処かの路上で蹲り、虚空を見あげているような気がしてならないのだった。〈了〉



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