凄いな、あの5人。
どこまで行くんだろうか。
千秋楽。
一人一人の演技のクオリティが比べ物にならなくなっていたのは勿論だけど、それ以上に彼女たちの中で戯曲の解釈が深まったからなのか。
5月5日に初観劇した時の違和感がすっと消えた。
同じセリフを同じように読んでいても、本人たちに迷いがある時はきっと見ている側にも少なからず影響するのかもしれない。
千秋楽は全てが素直に入ってきた。
演劇を見たのはこの「幕が上がる」が初めて。
だから比較もできないし、何が正解かも、むしろ正解があるのかも分からない。
初観劇した後に色々考えた。
自分なりの解釈を見つけるために。
概ね一昨日ブログで書いた今までの解釈は変わっていないです。
(舞台「幕が上がる」千秋楽の前に 続き)
むしろそれの答え合わせをするつもりでもあった。
そして一つだけやっと自分なりに辿り着いた答えがあった。
何故、カンパネルラのお父さんはたった45分で息子の死を受け入れる事ができたのか?
最初の観劇した時の自分なりの解釈は、自分自身生きる事を諦めた。
でした。
あの時のお父さんの表情はもう全てを諦めているように受け取ってしまったから。
一昨日までそうだと思っていた。
でも、多分違う。
きっと本当に大切な人を失った45分後はきっとあれがリアルな反応なんじゃないかな。
実感がない。
そして、多分そんなに簡単な感情じゃない。
千秋楽ではカンパネルラのお父さんは明らかに違う表情を見せていたと思う。
それは千秋楽で高城れにががるるから離れる事の現実とリンクした事であの芝居になったのかもしれない。
正直なところ、本当のカンパネルラのお父さんの気持ちは分からないし分かりようがない。
でも、最初に感じたものとは違って見えた。
一つじゃないたくさんの感情の洪水のようなものがあのシーンから受け取った。
7年前の自分はどうだったかな?
45分後...
実感無かったな。
家に突然警察がきて、病院に行って彼女を見ても。
全然実感がなかった。
2時間後には驚くほど冷静に葬儀の手配をしていた。
彼女の両親、自分の親、友達に連絡して、やるべき事を淡々と。
「なんでこんなに冷静なんだ?」
「自分はこんなに冷たい人間なのか?」
「自分の感情は壊れてしまったのか?」
「自分はおかしいんじゃないか?」
そんな事を自問自答したのを思い出す。
何かで読んだ事あるんだけど、僕みたいな人は結構多いらしい。
大切な人を亡くした直後は、悲しみさえ感じられない。泣けない状態がある。
私と同じようにてきぱき葬儀をすすめてしまったりして、周りから誤解を受ける。
これは心が悲しみを受け入れられないために生じている普通の反応らしい。
でもね、その後全てが終わってから、誰もいないたった一人きりの部屋に帰る日常に戻ってから、言葉に表せない苦しみや悲しみを感じた。
そして、
「なんで自分だけ生きているんだろう」
って・・・。
大切な人の死を受け入れる事なんて簡単じゃない。
でもその「死」に意味がある事であれば、遺された人はそれによって少しずつだけど受け入れていく事ができるんだと思う。
遺された人は大切な人の「死」の意味を探す旅路を続ける事になる。
一方でザネリを助けたカンパネルラや、生徒を助けた事務員さんのように客観的に見て明確な意味が見える「死」ばかりじゃないから、その旅路により苦しむ人も多いと思う。
でも「死」の意味じゃなくて故人が生きていた意味なら見つけられるんじゃないかな?
それは生きていた長さじゃなくてね。
生きていた意味は必ず誰にでもあってそれを全うした結果が「死」だから。
そうやって遺された人は折り合いをつけて生きていくんだと思う。
舞台「幕が上がる」でまさかここまでの重いテーマを扱うとは思わなかった。
でも自分にとっては本当に見れて良かった舞台でした。
ももクロちゃん、富士ヶ丘高校のみんな、本広監督、平田オリザさん、スタッフの皆さん有難うございました。
そしてお疲れ様でした。
ちょっと追記
一緒に観劇した友人が、臓器提供ってどうすればできるの?
と突然帰りに聞いてきた。
保険証に意思表示する欄があるからそこに書けばいいよって教えてあげたら、こんなに簡単なんだ、と驚いていた。
きっと彼は自分に「死」が訪れた時に、遺された人の事を考えたんだと思う。
自分の「死」に明確な意味が一つでも多い方が遺された人はきっと救われるって思ったのかな?
自分はジョバンニやカンパネルラのお父さん、そして中西さんに自分を投影して観劇したけど、彼はカンパネルラに自分を投影したのかな?
これだけで全く見方がかわるわけだ、演劇って面白い。