「いつも心に樹木希林」抜粋 | ஐ La vie ‪ஐ‬ 〜❁*.゚ありがとう♡だいすき.゚*❁〜

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いつも心に 樹木希林」
より抜粋鉛筆本


[ サンデー毎日1977年9月4日号毎日新聞社より]
                                                 
もっともらしい話でなんだけど、よく、「俺は無神論者だ」
っていう人がいるけど、どうも、「俺は無宗教だ」っていうのと勘違いしてることが多いみたい。
具体的な形での神を信じないからって「無神論者だ」とは断定できないと思うのね。私の場合は仏教徒だから、無神論者じゃないんだけど、だからって釈迦や日蓮や親鸞や空海や道元や・・・・・・を拝んだことはないのね。迫力ある生を生きて、しっかりと死んだ、神の心にまで至ったステキな人間だという感動はあるし、計り知れない敬意は持ってても・・・。
私にとっての神は光みたいなもんだと思うのね。「神様のバチがあたる」っておどかされて、よくおどろいたんだけど
神様ってのは、そんなセコいもんじゃないと思うのね。拝むと功徳があって、拝まないとバチをあてるなんて裏口入学みたいな駆け引きするわけないもの。
光は、生を受けたものぜんぶにあたるんで、ただ、受け止めるこっち側が、スモッグがかかってるか、晴れてるかによってその光は、燻ったり、輝いたりするんだと思うのね。
いずれ、科学も進歩して、心を反射する光を究めることができるかもしれないけど、それまでは、自分の判断を超えるものに対して拒否したり溺れたりしないでもう少し自然でいたいなぁと思うのね。
だって、それほどわたしは強くも弱くも偉くも駄目でもないんだもの。


[現代の眼1982年6月号現代評論社より]
                              

ー(帽子で)顔を隠し、身をちぢめてるくせに、わたしはケンカっ早いのです。ですが、自分の姿を正当化する為にたくさんの文章や言葉を使うケンカはしたくないと思っています。
そういう議論はけりのつけにくいものです。それぞれが「我」を押し通し無理やり「良し」と納得してしまうのです。ですから、負けた者の惨めさや、くやしさが、つつましさにつながることもなく、勝った者のおごりやら、むなしさが悲しみに変わることもないのです。上手なケンカは勝っても負けても自分を顧みます。気取ったケンカは写し出すべく鏡を自分で曇らせてしまいます。自分の姿はますますみえなくなってしまいます。ー


ー「世間」という鏡はそれほど浄明とは言えません。時代時代の好みや動きによって多かれ少なかれでこぼこしています。ですから時として、大して美しくないことでも思いがけず美化されたり、大して醜くなくても、目をおおいたくなるほどひどく写ることもあります。
ですが、少し遠目に、時をかけて観ればかなり平らかに写し出されます。
だとすればせっかくの鏡を、こちらが目をつぶったり壊したりしては勿体ないことです。
どのように写し出されようと、その原因は「私」が持っているのです。ジタバタすることはないのです。否定もせず、無視もせず、有頂天にもならず、悪意も善意もひっくるめて承知すればいいのです。
それらを享けとれば・・・ひょっとして帽子を脱ぐことができるかもしれません。
一生かかったって、世間の鏡に樹木希林という芸能人を花とみまごうばかりに写せるわけはありませんが
・・・気負わず、あせらず、ガッカリもせず・・・・・・水をやっていこうとおもっています。