立ち直る過程2:対話型のカウンセリング | 中絶、うつ病、そして明日への希望

中絶、うつ病、そして明日への希望

望まなかった中絶、それを思い出して苦しむ日々。同じ体験をした女性たちにとって、少しでも救いになるとともに、一人でも多くの女性が同じ苦しみを味わうことのないように願います。

精神科医との対話だけで問題を解決する、というスタイルのカウンセリング。

前の記事で書いたように、まともに話を聞かないわりに
やたらと薬を処方したがる心療内科に不信感があったので、
薬は処方しないという点が気に入って、何度か通った。


医師が何名かいて、選べるらしい。
初めていった時は空いている先生にお願いした。
私とそれほど年齢が変わらないであろう女性医師だった。


ふつうの部屋で、机を挟んで対面して座り、話していくスタイル。


この1回目で、私は話しながら泣いた。

泣くつもりはなかったし、同年代の女性の前で泣くのは恥ずかしいという気持ちも残っていたけれど、もう涙が止まらなかった。
話していると、少しずつ凝り固まった思いの糸みたいのがほぐれていく感じはした。



医師は何もしていない、ただ聞いているだけ。
でも、こうして中立的な立場の人に話を聞いてもらいたかったのかもしれないと思う。


友人のように励ましてくれるでもなく、
中絶した女はバカタレだと蔑まされることもなく、
ただ、私の思いを受け止め、私の思いに色を付けて判断せず、聞くだけの人。


そして私は話しながら、ひとつのことに気付く。それは、
「私は、私が好きではなかった」ということだった。


どんな話の流れかは忘れてしまったけれど、
話しながら、これが私自身の口から出てきたときに、はっとした。

自分で言っておきながら、その言葉が雷みたいに身体を打った感じがして、
その瞬間、胸がもっと苦しくなったけど、何かの栓が取れたような感覚もあった。


そうなんだ、私は私が好きじゃなかったんだ。
たったそれだけのことに、ようやく気が付いた。


私は、外見は鏡を見て親を怨むほどひどくはないし、
私は、勉強がわりとできたし、
私は、わりと名のしれた大学を出ているし、
私は、卒業してちゃんとした会社で働いているし、
東京で楽しく一人暮らしできている。
高給ではないけど生活には困っていないし、
友人もいて、一人の時間も、そうでない時間も楽しんでいる。
恵まれている方だと思う。


それでも、私が私を好きになっていなかった。


これまでにも、「私が私を好きになる」的なキャッチフレーズは、
本でも雑誌でもネットでも、たくさん目にしてきた。
仕事柄、そういった内容の本を読むこともあった。


それらを見るたびに、実はちょっとイラッとしていた。
「自分のこと好きなのなんて、あったりまえじゃん」と思っていたし、
そういう弱さみたいなのをバカにしていた気持ちがあった。


でも、イラッとしていたのは、私が私を好きじゃなかったからだと思う。
自分のことを言われているようで、居心地が悪かったのかもしれない。
「お前は自分のことが好きになれない、劣った人間だ」って言われているようで、それを否定したかったのかもしれない。


このカウンセリングには確か4~5回通った。
保険適用でないため値段が張るのがちょっとイタかった
(医師にもよるけど、当時は60分1万~2万円でした)。


ただ、最初に受けたときの発見
「私が私を好きではない」が、
頭ではなく、身体感覚として初めて感じられたことは収穫だった。


少しだけ、前に進めたような気はした。