『知っているということ』
以前、テレビのバラエティー番組で、
面白い企画がなされていました。
それは、あるアイドルのファンという人が、
そのアイドルについてのクイズで、
アイドル本人と対決をするというものです。
アイドルの大ファンという方は、
いわゆる「おたく」と呼ばれる類の人で、
そのアイドルについて、
マスコミを通じて蓄えた情報を、
たくさん知っているのです。
そして、クイズとして出題されるのは、
「おたく」が蓄えている情報なので、
当然、早押しクイズとなれば、
「おたく」の方が即答できるのです。
本人についての情報を蓄えている人の方が、
本人よりもクイズに答えられるという、
不思議な状態が起こる事が面白い、
という趣旨の、番組の一コマでした。
このような事が起こるのは当然で、
クイズとして用意された本人の情報と、
「おたく」が知識として持っている情報が、
ほぼ一致しているというだけの話です。
そしてこの事を通して分かるのは、
クイズに答える能力があるからといって、
それについて充分なことを知っている、
という訳ではないという事です。
ある人物について、生年月日とか、
出身地とか、血液型などという、
プロフィールについて知っていて、
それを知識として持つ事はできます。
実際にその人と顔を合わせなくても、
その手の知識は得ることができます。
しかし、そのような知識に対して、
実際に顔を合わせ、言葉を交わし、
同じ時間を共有することがあって、
初めて得られる様々なことがあります。
一緒に泣いたり笑ったり、
同じ体験をする事によって、
その人についてやっと分かる、
ということがあります。
そのようにして得られることの方が、
当然、より真実に近いのです。
ペーパーテスト等で合格不合格が決まる、
という場面が多い中で、
テストの問題やクイズに答えられれば、
それについて充分知っていると、
考えられてしまう風潮があります。
神様との関係について考える場合も、
知識として知っているというのと、
実際に関係を体験するのとでは、
全く違うのです。
神様を体験できる場所として、
教会が機能する事を、願ってやみません。
いつも読んでくださり、
ありがとうございます。