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誰もわたしのことなんて分かってくれない
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孤独感に陥ってしまうことってありますよね?
「孤独感」は悲しみと怒りと恐怖が混ざった感情です。
感情についてはこちらから
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誰もわたしのことなんてわかってくれない
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この時の
悲しみは、本当は誰かに気持ちを
共有してほしいのにできない
という感覚
恐れというのは
一人ぼっちで生きることの怖さ
怒りというのは
「なんでわかってくれないの!」
という憤り
これらが混ざり合ったとき
「孤独感」にさいなまれるのではないかと思う。
わたしは人間という弱い生命体が生きていく時、
この「孤独」という怖さは常につきまとうのでは
ないだろうかと思う。
この「悲しみ」「怒り」「怖さ」の中で一番やっかいなのは
「怖い」である。
「怖い」は、「安心感」がないと抜けない。
迷子になった子供が
それまでは泣かずに我慢していたのに
親の顔を見たら
「え~~~ん!」
って泣きだす現象がそれで
この時差は親の顔を見て安心したから
やっと泣くことができたのである。
なので「孤独感」を癒すためには
「安心感」で「怖さ」をどう溶かしていくか?
が問題になってくるのです。
この「安心」に関わるのが「オキシトシン」という
幸せホルモンで
このオキシトシンがでていれば
「まあいいか」って
思えるかどうかぐらいに思っておいた方がいいと思う。
ここで岡田尊司著「死に至る病」98ページから
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人を幸福にする生物学的な3つの仕組み
生理的な満足や快感から精神的な充足感や達成感まで
喜びや満足の種類も幅広いように思えるが
人に喜びや幸福を与える生物学的な仕組みは
実は3つしか存在しない
1つはお腹いっぱい食べたり性的な興奮の絶頂で
生じるもので エンドルフィンなどの内因性麻薬、
脳内麻薬が放出されることによって生じる快楽だ。
これは生理的な充足と深く関係し、
我々が生きることに最低限の喜びを与えてくれる。
2つ目は報酬系と呼ばれる仕組みで
ドーパミンという神経伝達物質を介して働いている。
大脳の腺状態の即座核と呼ばれる部位で
ドーパミンの放出が起きると人は快楽を味わう
ドーパミンの放出が起きるのは通常困難な目的を達成した時だ
サッカーのゴールの瞬間や麻雀でローンをした瞬間に ドーパミンが放出され、
やったという快感になる
数学の問題を解けた時やマラソンを完走した時も
このタイプの喜びが生じることにより喜び、
再び努力して次の目標を達成しようという
モチベーションが生み出される。
ところがこの報酬系はしばしば悪用される。
面倒な努力抜きでドーパミンの放出先を引き起こし
短絡的な満足を与えてしまえば
強烈な快楽を手軽に得られるのだ。
その代表が麻薬である。
アルコールのような嗜好性のある物質もギャンブルのような
病みつきのある行為も
ドーパミンの短絡的な放出を
引き起こすことで依存を生じさせる。
麻薬の場合は難易性麻薬の放出を伴う場合もある。
実はもう一つ喜びを与えてくれる仕組みが存在する。
それが愛着の仕組みである。
こちらはオキシトシンの働きに追っている。
愛する者の顔を見たり
愛する者と触れ合う時
興奮というよりも安らぎに満ちた喜びが
湧き起こるのだ。
実は喜びを与えてくれる仕組みは
実はこの3つしかない。
あとは辛いことばかりだ。
この世のありとあらゆる試練や苦痛の代わりに
我々に与えられている喜びはそれだけである。
頑張っていた優等生やエリートが
学業や仕事でつまづいたとき
家族の優しい慰めといたわりによって
立ち直ることができるのが
ドーバミン系の報酬を得ることに失敗しても
オキシト神経が与えてくれる慰めや喜びによって
それを埋め合わせることができるからだ。
ところが愛着の仕組みもうまく機能していないとどうなるか?
傷ついた思いを癒す方法としては
食べることや性欲を乱すことで紛らわすか
短絡的にドーバミンの報酬を生じさせる物質や行為にのめり込み
代償的な満足を得るしかない 。
実際不安定な愛着ことに回避系の愛着は
将来の物質依存、アルコールや薬物への依存のリスクを高める。
親から無条件の愛情を与えられずに
不安定な愛着を抱えた人では
オキシト神経の充足が不十分にしかえられない。
そこで頑張ることに
よって目標を達成し
周囲からも認められることで
自分を支えようとする
そのプロセスがうまくいっている時は
オキシト神系の不足をドーバミン系の充足で
補っているわけだ。
ところが頑張って結果を出すという戦略が
つまずいてしまった時
喜びを与えてくれるのは、
食べたりセックスしたりという
生理的な快楽か 麻薬や思考的行動によって
ドーバミンを短絡的に放出させるという手段しか
残っていない 人は、
この世の苦痛に耐え生きていくために
何らかの喜びを必要とする。
その喜びを与えてくれる最終手段が
過食やセックス依存、
薬物やギャンブル、
ゲームに溺れることなのである。
それは努力して達成感を味わうという
本来の喜びではないが 生きるために必要な喜びなのである。
ただ短絡的な充足は
耐性を生じ
同じだけの喜びを得るには
もっと強い刺激を必要とすることになる。
それが時には健康を害し
破滅の危険に身を晒せることになる。
それでもやめられない
なぜならいくらやり続けても
本当の満足を与えてくれることはないからだ。
本当の満足を与えてくれる
唯一の仕組みは オキシトシンを介した
愛着の仕組みなのかもしれない 。
それが不足し それ以外の満足で代償しようとするとき
飢餓感は癒されず
再現のない自己刺激行為に陥ってしまうのかもしれない。
嗜好的な行動だけでなく
目的に向かって頑張るという行動においても
愛着システムがうまく働いていない時
しばしばどうこした中毒になってしまう。
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愛着は
オキシトシンは
優しさは
孤独を救う!